【禅語】放下著【ほうげじゃく】〜「リーダーになる人の武器としての禅の名言」より

そんなプライド、捨ててしまえ!


禅では、すべてを投げ捨てて、丸裸になれと主張します。


「私は修行を通してすべてを捨てて、
まっさらな自分になりました」とある修行僧が師に言いました。
それに対して師は言いました。


「放下著」(そんなプライド、捨てちまえ!)

「すべてを捨てた」と得意げになっている修行僧ですが、
捨てたことを自慢するその心がまだ残っていることに師が喝を入れたのです。

「私はこれだけの実績を上げた」
「私はこれだけのキャリアがある」

自己アピールを繰り返している人はたくさんいます。

しかし、そんな過去の実績を後生大事にもちあるいている、
その鼻もちならない姿勢は、リーダーとして尊敬されるでしょうか。

たとえ、なにかを得たとしても、
それはほんの束の間の思い込みにしか過ぎません。

いつまでもそんな古いプライドにしがみついていないで、
一瞬一瞬を初心の気分で臨んでこそ、
新しいビジネスを生みだせるのではないでしょうか。

いますぐにでも、そんな慢心は取り下げたほうがよさそうです。

【禅語】庭前の柏樹子(ていぜんのはくじゅし)〜「リーダーになる人の武器としての禅の名言」より

目の前の大きな宝物に気づく。


ある僧が師に「禅が生まれた本当の理由はなんですか」と尋ねました。

すると師は「庭の前にある柏の木じゃよ」と答えました。

突拍子もなく聞こえるのが禅問答の痛快なところですが、
ちゃんと本当の意味もあります。

尋ねた僧は師匠から壮大な思想を聞こうとウズウズしていたわけですが、
師匠に庭先の柏の木だと肩すかしを食いました。
ところが、これは単なる肩すかしではありません。

なんの変哲もない柏の木にも宇宙が体現されています。
生命があり、光合成をして、成長して、
そこには宇宙の神秘があります。

よくまわりを見渡せば、
この世界は神秘と不思議に満ちあふれています。
これらの神秘と不思議に気がつかないのに、
神とは、宇宙とは、真理とはなどと
大きな妄想を広げていくのは不健康かもしません。
禅ではこのような頭でっかちで大上段に構えた議論は喜ばれません。

私たちは世界の神秘を、論理を使って解釈しようとします。
言葉や数字でねじ伏せようとします。
それがこの現代社会の歪みを生みだしています。
世界はもっと繊細で多様です。
ずさんなロジックで何でも解決しようとするのは、人間のおごりです。

まずは身近なところから。
禅は身近なところへの気づきにはじまり、
身近なところの気づきに終わります。
ブッダは死後の世界や霊魂の有無など
形而上学や哲学的議論には沈黙を通しました。
これを「無記」といいます。

悩んでも答えの出ないことは考えないのが、仏教の立場です。
まずは目の前の自然や家族の生命の尊さなどの素晴らしさにもう一度、
注目してみませんか。

【禅語】泥に入り水に入る(でいにいりみずにいる)〜「リーダーになる人の武器としての禅の名言」より

「利他」の心で自分の心も洗う。


人を救うためには、泥にも入り、水にも入る――。


そんなお人好しでは世の中渡っていけないよ、
と思う方はいるかもしれません。

たしかに、人助けの行為はたやすいことではありません。

それでもなおかつ、このような行為が人の心を動かすのは間違いありません。

よくギブ・アンド・テイクとか、
お互いの利益が合致した関係をWIN‐WINなどといったり聞いたりします。

損得勘定を考えたら、もちろんそれが正しいです。
仏教では、他者のために尽力することを「利他」と呼びます。
もちろん相手の幸せを願う気持ちであることは間違いありませんが、
「利他」にはほかにも優れた点があります。

修行僧が「利他」を行うのは、
相手の幸せを願うと同時に、
自分のエゴ(自己愛)を洗い落とすという意味があります。

「おれがおれが」と人を押しのける気持ちを鎮めることです。
「おれがおれが」の発想では、
他人は共感したり協力してくれることはありません。
「おれがおれが」の発想の人は、
決して人から愛されたり、尊敬されることがありません。

それは自分にとってマイナスです。
さらにエゴを押し通そうとすると、
他人から排除され苦しい立場に陥ります。
最近は、災害などによる被災者の方を
積極的にサポートする人々も増えました。

リーダーとなる人はこの「利他」を実践することで
得るものは計り知れませんし、
実際、優れたリーダーに「利他」の行為を
よく見かけるようになりました。

相手の幸せを願えば、結局自分もハッピーになってしまうのです。

【禅語】大死底人(だいしていのひと)〜「リーダーになる人の武器としての禅の名言」より

死を想うことで明日が見えてくる。


大きな病気をすると、人生観が変わるとよくいいます。
人生観というより、「死生観」が変わるのでしょう。

つまりどんな死に方をするべきかです。
どんな死に方をするかを考えれば、
残された時間をどう生きるかにつながっていきます。


誰しも死にたくありません。死の危険にも触れたくありません。
それでもなお、死は私たちに「なにか」を伝えてくれます。


ヨガに「死者のポーズ」というのがあります。
肢体を地に投げ出して、
自分が死体になったとイメージする瞑想のようなものです。
ときに人生をギリギリまで追い込む、
または追い込むイメージをしてみることは、
生き方を振り返るのに大切です。


すべてを失って丸裸になったところをイメージしてみる。
そうすると、いつも大事に抱えていたことが

実はたいしたものではないことに気づきます。


しょせんはゼロからはじめた人生です。


「死んだ気になって出直す」とよく言いますが、
まさに死をイメージすることは
新しいインスピレーションや着想を生むかもしれません。
週に一度、まっくらな無音の部屋で、全身を投げ出して、
「死のレッスン」をしてみるのも いいかもしれません。

 

死はゼロです。
大丈夫、あなたは生きています。
生きている以上、ゼロ より下に落ちていくことはありません。

禅語・東山水上行【とうざんすいじょうこう】

山は不動。動いているのは心。

 

川に沿って歩くと、川面に映っている東にある山も移動していく。

 

山とはどっしりとしていて、不動のものです。
それが川面を移動していくように見えるのは、不思議です。

 

動いているのは川の流れなのか。
それとも山が動いているのか。

 

動いているのは私たちの心かもしれません。

 

川はただ山を映しだしているだけです。
世界はただありのままにそこにあるだけです。
なにかが起こっていると感じるのは、
ただただ私たちの心の中だけにすぎません。

 

激動するビジネスシーンで起きるさまざまな出来事も、
現象としてはただ必然的にそこに起きているだけです。
起きたこと自体には、善悪はありません。
善悪をつけているのは私たちの心にすぎません。

 

昨日の常識が通用しない世の中ですが、
常識を作りだしているのもまさに、私たちの心です。

 

あの人はこんな人だ。
私はせいぜいこんなものだる
この仕事はこういうものだ。
この組織はこうあるべきだなどというのも、
思い込みに過ぎません。


日々変わりゆく日常。
思い込みに、あぐらをかいていると、
いつ変化に足をすくわれるとも限りません。

 

しかし、悲観することはありません。
変化すること自体が日常だと考えれば、
変わっていくことはそんなに怖いことではありません。


変化を楽しみましょう。
固定観念を突き放しましょう。

 

川面を流れる山を楽しみながら歩いて行きましょう。

比類なき荘厳さワット・ポーの「涅槃仏」

私たちはなにもできない

 

全長46m、高さ15m。
このとてつもない大きさの涅槃仏を見てきました。

 

バンコク市内にある王宮寺院ワット・ポー。
そこに「涅槃仏」は横たわっています。

「涅槃仏」とはお釈迦様が入滅されるときの様子を表したものとされています。


なんでこんなに巨大な仏像を作ったのか。

 

もちろんインパクトを追求したのかもしれません。
しかし、私はこう思います。

仏さまの存在は、人間の想像を超えたもの。
人間の尺度では、判断できないものです。

人の解釈を超えた壮大さを表すために、
この金色の巨像を作り上げたのでしょう。

人間はなんでも自分の力でなし得ると過信しています。
文明は確かに人間を前へと押し進めてきました。
しかし、人間が考えてもみなかった次元というものは、
確かに存在して、私たちはその異次元の「なにか」に生かされているのです。

私はこの像を前に、ひれ伏したいほどの畏怖の念を感じました。
私たちはなにもできない。
なにもできないからこそ、大いなる存在に帰依できるのです。

そんなに肩ひじ張らなくていい。
ただ身を任せればいいのだと。

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神々しい輝きで、小さな人間という存在を圧倒する「涅槃仏」

 

一歩踏み出せば、世界は変わる。禅語「一斬一切斬」【いちざんいっさいざん】

最初の一歩が世界を変える。
「一斬」とは、ひとつのものを切ること。
「一切斬」とは、すべてを切ること。

 

自分をすっかり変えるのは
とてもむずかしいことです。
人間は習慣の生き物だからです。
毎日つづけていることを変えるのは
非常に抵抗があるものです。


すべてを一挙に変えてしまおう
と考えると荷が重いです。

 

「一斬一切斬」とは、ひとつを斬れば、
全部が斬れることを意味します。
たったひとつの習慣を変えることで、
生活全体が変わるという話は、自己啓発書などでもよ
く見られます。

 

世界は網の目のようにつながっていて影響しあっています。
これを仏教では「縁起」と呼びます。
網の目のひとつを斬ることで、網全体の形状が変わります。

 

大切なのは、尻込みしないこと。
「縁起」をよく理解すること。

 

諦めず、すみやかに、大胆に。
小さいことは、実は大きく、大きいことは、実は小さいのです。


仏教では、ミクロとマクロは 同時に共存していると考えます。
小さな習慣も、大きな事業へと転じるのです。
躊躇せず、まず見る前に跳んでみましょう。