「法華経」を読むと、道元も思い出す 〜「法華経」序品補足

時空間の概念がかく乱される

 

どうもです。
前回、前々回と、「法華経」の冒頭部「序品」について、
ざっくりとしたお話をした。
読者の方から「わかりにくい」というご指摘もあった。

なので、ちょっと補足しておく。
おれが「序品」を読んで感じていること。
それは、仏が現在・過去・未来と、
あますところなく存在していて、
それらが縦横無尽に行き来しているイメージを沸き立たせたことだ。

未来の如来はいまここで修行している自分であり、
そんな未来の如来も過去からずっと存在している。
時空間の観念がかく乱されるのである。

この攪乱具合がたいへん心地よい。

人は過去に生まれて、現在、このシャバで苦しみ、
やがて未来に死に果てていく。

あまりに不条理な人間世界。
しかし、その不条理さも、
この時間の観念に縛られているから生じるものである。

曹洞宗開祖・道元も時間について考えていた

 

法華経」の話をしているのに、
禅宗道元の話を持ち出すのもなんだが、
おれは「序品」を読みつつ、
道元の「正法眼蔵」の次のようなくだりを思い出した。

謎めいた言葉だが引用しておく。
わからなくてもいいから、目を通していただきたい。

たき木(薪)、はひ(灰)となる、
さらにかへりて(返りて)たき木となるべきにあらず。
しかあるを、灰はのち、薪はさき(先)と見取すべらかず。
知るべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断せり。
灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
かのたき木、はひとなりぬるのち、
さらに薪にならざるがごとく、
人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生の死になるといはざるは、
仏法のさだまれるならひなり。
このゆえに不生という。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。
これゆえに不滅という。
生も一時のくらゐ(位)なり、死も一時のゐなり、
たとへば冬と春との如し。
冬の春となるをおもはず、春の夏となるといはぬなり

簡単に言ってしまえば(とうてい簡単には言えないが・・・)、
薪(たき木)と灰(はひ)の関係は、
薪(たき木)が燃えて、灰(はひ)になるのではなく、
薪(たき木)は薪(たき木)、灰(はひ)は灰(はひ)として存在していて、
薪(たき木)自体が、灰(はひ)になるわけではない、というのである。

たとえば、春自体が夏になるのではなく、
春自体は春として、夏自体は夏として存在する。

なんでかというと、
薪(たき木)を薪(たき木)だと、
見るのはおれの一瞬の主体的な行為であり、
灰(はひ)を灰(はひ)だと
見るのもおれの一瞬の行為だからだ。

結局、おれが見るから、薪だと灰だのと判断するわけで、
その都度、薪や灰を見ている一瞬に自分宇宙の中で、
存在が成立するだけだからだ。

ここに「不生不滅」の考えが導き出される。

生も死も、おれが、
「これは生きてる」「これは死んでる」と判断する、
その瞬間にしか成立しないものだ。
だから、「生の死」とは言わないわけで、
これを「不生」という。
逆に「死」が生まれるとも言わないわけで、
これを「不滅」という。

要はおれ自身がその瞬間に何を見たかだ。

これを読むたびに、
おれの時間の観念はぐらぐらと揺らぐ。

結局、過去や未来などをあれこれと詮索するのは、
無意味なことであり、
そもそも、過去や未来が存在するかどうかも怪しいものだ。

そういうことは、最新科学でもとやかく言われることだ。

法華経」には、方便として、過去や未来がいろいろ出てくるが、
仏の世界は実は、そんな人間の解釈では、
判断できないような無限大の世界が広がっている。

おれたちがちまちま考えている過去や未来など、
仏にとっては、どうでもいいことかもしれない。

 

時間の概念を超越するスペクタクル・ロマン 〜「法華経」序品その2

過去が未来へ、未来が過去へ


おれたちは過去を悔やみ、未来を憂いて生きている。
毎日は後悔と不安で渦巻いている。

しかし、もし、過去や未来が、
おれたちが考えている手の届かないものでなかったら、
おれたちが過去から未来に渡って、永遠の宇宙につながっていて、
祝福された存在であるとするならば・・・。

おれたちは、見捨てられているわけでも、
孤立しているわけでもないのだとしたら。

法華経」の冒頭の章ともいうべき、序品は痛快だ。
過去から未来、未来から過去、
過ぎ去ってしまったものでも、まだ見ぬものでもない、
仏は自在にこの宇宙に偏在しているのだ。

少し長くなるが引用を続けたい。
いつものように、正木晃先生の「現代語訳 法華経」より。

文殊師利菩薩は、弥勒菩薩らにこう語った。

菩薩たちのなかに、妙光という名前の菩薩がいました。
かれは八百人の弟子をひきつれていました。


日月燈明如来は瞑想の後、妙光菩薩のために、
大乗仏教の経典を説いたと文殊師利菩薩は言う。
その後、予言を終えた日月燈明如来は真夜中に涅槃に入った。

 

 

日月燈明如来が入滅されたのち、妙光菩薩は、
このうえなくすばらしい法華経をおぼえて、
八十小劫(注・永遠に近くとんでもなく長い時間)のあいだ、
人々のために説法しました。
日月燈明如来の八人の王子たちはみな、
妙光菩薩を師として、修行しました。

 

 

妙光菩薩の八百人の弟子のなかに、
求名(ぐみょう)という者がいました。
その名前のとおり、名声欲にとらわれていました。
また、いろいろな経典を読んだり唱えたりしても、
意味が理解できず、忘れてばかりいました。


それでも、求名はがんばった。
百千万億もの如来たちに会い、お仕えした。

文殊師利菩薩は言う。

弥勒菩薩さん。
よくおぼえておきなさい。
あのときの妙光菩薩こそ、このわたしなのです。
あのときの求名菩薩こそ、
あなたなのです。

 

遠い過去に存在した菩薩が、
いま、面前にいる文殊師利菩薩であり、
遠い未来におれたちを救ってくださるといわれる
弥勒菩薩が、そのかつて名声欲に溺れていたあなたなのだと。

なんだか壮大すぎて、
ぼけーっとしてしまう話である。
しかし、このぼけーっとしたこと、
壮大すぎて唖然としたあなたの感覚は正しい。
それこそが大切なことだ。

つまりわれわれの思考・感覚では、
仏の世界はとうてい理解できないのだ。
お釈迦様は仮に人間の姿をしていたが、
本来仏とは、形も色も想像できない存在なのだ。
そこに畏敬がうまれるとし、
そんな完全体であるからこそ、
おれたちが芋虫みたいに這いつくばっていることは、
すべてご存じで、すくい取ってくださるはずなのだ。

比類なき存在、
圧倒的な存在、
想像も及ばない存在。

それが仏の本性なのだ。

そう考えると、
おれたちが唖然とした感覚は、
ある意味、「救い」でもある。
唖然としている間は、
上司の顔も吹き飛ぶし、
恋人が今頃浮気しているんじゃないかとか、
腹が減ったとか、
性欲でモヤモヤするなんて感覚は、
吹き飛んでしまう。

それが信仰であり、
祈りなんだと、おれは思う。

現在・過去・未来・・・すべてを知ってくれているお方がいた〜序品その1

現在にも過去にも未来にも存在するお方とは

 

こんにちは。
萌え寺・了法寺のご住職と親しくさせていただき、
法華経」を読む機会を得た。
いままで苦手意識満載の「法華経」を読む気になったのは、
了法寺のご住職の「ホケキョー愛」に心を打たれたからに他ならない。

さて、長い長い「法華経」の最初の章は「序品」(じょほん)という。
最初から飛ばしてまっせ。
現在・過去・未来と話は縦横無尽に行き来して、
あたかもSFの世界みたいな「法華経」。
そのオープニングから、ぶったまげるようなことが書かれている。
ではその「序品」について、何回かヨタヨタと書きたい。
ここで引用するのは断りのない限り、
「現代日本語訳 法華経/正木晃著・春秋社」からである。

 

みなさん、想像することも考えることもできない遠い遠い過去世に、
如来がおられました。
その名前は「日月燈明」(にちがつとうみょう)といいました。
(中略)歴史や時間の制約を超えた智恵の持ち主であり、
過去世を知り尽くし未来世を知り尽くし煩悩を完全に克服した方であり、
完全な悟りに到達した方であり、
聖なる世界のことも俗なる世界のことも知り尽くした方であり」
(一部省略)

 
日月燈明・・・なんと美しい名称。
遠い遠い昔から、日月燈明がいて、
おれたちの世界を包み込んでいる。
頼もしいではないか。
しかも、いまも、未来に渡っても、このお方が守っていらっしゃる。
横道にそれるが、おれは「お方」と言ったが、
このお方が、人間でないばかりか、人の形をしているかどうかも、
定かでない。
そういう人間の存在を遙かに超越した存在なのである。
いや、もっと言えば、「存在」と言っていいかもわからない。

おれたちは「仏」というと、お釈迦様の姿を思い浮かべるが、
実際、「仏」がどんな姿をしているかなんて、
誰にもわからないのである。


この日月燈明如来が涅槃に入られたのち、
また如来が出現されました。
その名前は、同じく、日月燈明といいました。

 
ううー。
唸るだけだ。
これだけ読んだだけでも、ゾクゾクッとする霊感の強い方もいるだろう。
おれは、何か畏敬の念を感じた。

このようにして、全部で二万の如来たちが、
まったく同じ名前の日月燈明という名前をおもちでした。

 

これは非常に謎めいた話である。
みなさんはこれをどう考えますか。
専門家の方々は諸説お持ちでしょうが、
せっかくど素人が読んでいるのだから、
ど素人の見解をこそっとつぶやきましよう。

過去や未来は人間が考え出した幻影!?



世界、いや、この宇宙というものは、
おれたち人間が意味づけする以前に、
ただありのまま、そのまんまに、ただ存在しているのであり、
あとから勝手に、過去だの未来だのと、
定義しているだけなのではないか。
本当は過去や未来なども存在していなく、
ただ「ある」、それだけではないのか。
いや、ただ「ない」のかもしれない。

なんてというと、わかりにくいが、
おれたち、三次元に生きている人間には、
まったく理解できないかっこうで「ある」のではないか。
それが、「日月燈明」というお方の実相なのではないだろうか。

ちょっと肩の荷を下ろしてみる



そう考えると、この娑婆、この世の中がちっとは楽に考えられないか。
おれたちは日々、ハナクソ見たいことで、
一喜一憂して、泣き、怒り、笑っているが、
そんな些細なことが、吹き飛んでしまうほど、
この宇宙は壮大だし、その宇宙すら、無限の数だけ存在すると、
法華経」はいっていると、おれは想像した。
法華経」を読む。
正直、退屈な描写も多い。
しかし、読後に感じる心の解放感は格別。

みなさんも了法寺でおれたちとホケりませんか。

おれが見つけた新しい経典「法華経」

人生にまた災難が訪れる

 

お久しぶりです。
おれはまた新たな局面を迎えたので、ブログを再開します。

おれはいま、52歳になった。
はっきりいって、じじいである。

これを読んでくださっているみなさんはおそらく、
もっと若くてやりたいことがたくさんあり、
体力も気力も勇気もあって、
未来に向かって突き進んでいるかと思う。

ところが、おれはめっきり歳をとった。
そこで、おれはダイエットと筋トレをして、
昨年、17キロしぼった。
これは我ながら画期的だった。

しかし、老化というものは待ってくれない。
老眼になるし、シワも増えた。

正直、老いるのがこわいのだ。
みなさんだって、あっという間に、おれのようになるはずだ。
やりたいことの100分の1も達成しないまま・・・。


朽ちながら、夢をゴミ箱に続ける、苦渋の日々。
このままでいいのか、いやよくない。
しかしも何も打つ手はない。
唯一の救いとなっていたはずの執筆活動も、
2年前に停止して、筆を折ったままである。


おれは再び、精神的なピンチに陥ってきた。

法華経」は魂を解放するのだろうか!?



そんなおれが、このピンチを抜け出るきっかけを得た。
「般若心経」で精神的危機を脱したおれは、
あらたな経典と出会った。

それが「法華経」である。

このきっかけを作ってくれたのは、
東京・八王子にある萌え寺・了法寺のご住職だ。
了法寺をご存じですか。

こちらですよ。

ご住職とはここ最近、交流をあたためている。
今日もドライブを楽しんだところだ。
ご住職のことは、のちのち話していこう。

今日はみなさんお待ちかね(!?)の「法華経」について、
さわりを語りたい。

法華経」の成立やうんちくなどは、
みなさん、あまり興味ないだろう。

おれもなかった。

ただ、いろんな神様やらなんやらが、
ごちゃごちゃでてくる「神様オールスターズ」の経典で、
「般若心経」などに比べると、
なんだか、ごちゃごちゃした印象。
スタイリッシュな「般若心経」に対して、
ごった煮的、大衆的な書物という感じがして、
なんだか、あまり興味を持てなかった。

了法寺のご住職とのこの1年余の交流において、
何度も通読を勧められたが、のらりくらりと、まさに「逃げ」ていた。

しかし、今回のおれの精神的危機で、
わらにもすがる心地でいたとき、
住職から画期的な翻訳本をプレゼントされた。

 

現代日本語訳 法華経

現代日本語訳 法華経

 

 

これだ。これは基礎知識なくても、「法華経」が読める。

まあ、そういう経緯はさておき、
法華経」は最初から飛ばしている。

ざっくり言うと、
冒頭の方で、こんなことを言っている。あくまでも、ざっくりだ。
お釈迦様から弟子たちへの言葉だ。

おまえらに、悟りの境地なんかわかるはずがねえ。
だから、おいらはもう説法なんか、やーめた、と。


弟子たちは超驚く。
そりゃそうだろう。
少なくとも、そこいらへんの庶民よりは自分たちは、
お釈迦様の言葉を深く理解しているつりなんだから。

ふ、ふ、ふ。
法華経」というのは、そんな大胆なことをのっけから言うのである。
仏教をかじったことのある人なら、もうこれで読みたくなるはずだ。
仏教に興味なくても、お釈迦様の真意は知りたいはずだ。

お釈迦様にも見捨てられるひ弱き人間の、
魂の解放、永遠の安寧、いわゆる悟りなど、
われわれにはとうてい得られないのか・・・。


などと、えらそうに言っているおれだが、
法華経」は正直、初見である。

だからこうして、みなさんと一緒に読み解き、
おれなりに考えたことをこのブログでみなさんに伝えていきたいと思う。

了法寺はオモロイ!

ちょいごぶさたでした。

八王子の萌え寺・了法寺を訪ね、ご住職と盛り上がりましたので、

もうひとつブログを開設しました。

こちらも併せて、よろしくお願いいたします。

 

「愉快な住職と読む! グレート・ザ・法華経」

記憶とは墓場である

記憶は霊的にはなんの役にも立たない

あなたは記憶に救けられていますか。

人生を救うものは、優しい愛の記憶しかない。

と何かのエッセイで呼んだことがあります。
確かに、落ち込んだとき、誰かからもらった愛の記憶は癒しになりますね。

また記憶は、経験となり、自分を危険から守ってくれます。
また知的な創造活動の助けになることもあるでしょう。

しかし。
霊的にはなんの役にも立たないのです。

なぜか。
想起する、記憶を手繰り寄せるというのは、
過去の遺物をかき集めているだけなのです。

記憶は「生」を奪い取る

記憶というのは過去の産物でしかありません。
記憶に頼るということは、過去にすがるということです。

いつも言うように、神が宿るのは「いま」しかありません。
神は過去形や未来形で語られません。
神の祝福が降り立つのは、過去でも未来でもなく、「いま」です。

「いま」起点に生きる。
「いま」をゼロとして生きる。

道元はそれを「初心」と言いました。
書を書くとき、一度目には集中できますが、
二度目はどうでしょう。
もうすでに先入観や惰性が入って、うまく書けません。

写経なども一枚目はまっさらな気持ちで書けますが、
二枚目はボロボロです。

記憶というのはエゴのより集まりで、
新しい体験が自分の中に入ってくると、
ものすごく抵抗します。

結局、人間は過去の強力な負のエネルギーに敗北して、
おずおずと過去、つまり記憶に従うのです。
平凡な生活、家族のしがらみ、常識により規定。

あなたは何も代わりません。
なぜなら、過去の記憶に従ったほうがラクチンだからです。

新しい体験には恐怖がつきまとう

新しい体験がやってきたら、
それはつらいことでもうれしいことでも、神のメッセージです。
まっさらな気持ちで空け入れたいです。

そこには恐怖が待ち構えていることでしょう。
これを勇気を持って、受け入れないならば、
あなたの「いま」は屍を生きているようなものです。

いえ、死んでいるのです。

いいことであり、
悪いことであり、

新しくやってきた神の祝福には、
記憶や経験などに頼らず、
「基準」や「規範」のない「いま」この瞬間の直感に頼りましょう。
「いま」と
「過去」や「記憶」は、地続きではありません。
次元の違う世界のお話です。

「いま」だけがあなたの生きている世界です。
記憶の中にこじんまりと眠る生活を脱して、
新しい異物を勇気を持って受け入れましょう。

そこからしかあなたは決して変われません。

記憶の中で、成長を止めますか。
新しい冒険へと乗り出しますか。

頭ではほんとうの体験はできない

頭で考えたことは、ゴミ

ぼくは意外とお勉強好きです。
般若心経も学問として、最初に読み始めました。

ぼくは体系だった学問が大好きです。
論理的に美しければ美しいほど、その学問を愛します。

しかし。

人間が考えることは、限界があります。
人間の思考など、ただ事実の寄せ集めでしかありません。

たとえば、「ピンクの象」がいると考えた人間はおもしろいです。
でも、「ピンク」も「象」も実在の事実の合成でしかありません。

クリエイティブな人がもてはやされる時代ですが、
クリエイティブといったって、しょせん、昔のアイデアの組み合わせでしかありません。

ゴミのようなものです。

論理の外に真実がある

想像力とは、既成の概念をぶちやぶったときのパワーにほかなりません。
しかし、その素晴らしい想像力ですから、
寄せ集めのアイデアのぶつかりあいでしか、ありません。

ところが、人間がほんとうに解放されるのは、
そういう他人から押し付けられた過去の遺産ではありません。

自分の体験です。

自分が論理や概念から自由になり、
いま、ただこの瞬間の投げ出される体験。
自分を信頼して、それを受け取る勇気。

自分がいま、存在して行為することの驚き。

それこそが、生をリアルに生きていることですし、
ほんとうの意味での解放、といえるでしょう。