おれたちが救われる「霊的な時間」についてもうひと言いわせてくれ〜「法華経」序品その5

救ってくれたのはいつも「霊的な時間」

 

おれはかつてこのブログで書いたように、
30歳を過ぎたころ、精神に行き詰まりを感じておかしくなり、
会社もリストラ的に辞めて、
ぷーたろー生活に入り、借金を作った。
仕事が決まらないので、借金もかさみ、
蟄居生活で、ますますカオスな人生を送った。

そんなとき、おれを救ってくれたのが、
「般若心経」であり、仏典たちだった。

それはある意味、自分を変える、
セルフ認知療法だった(笑)

仏典はむずかしい。
読みづらい。
苦しい。

しかし、「クルシミ、上等」をキャッチフレーズにするおれなので、
そのクルシミをもだえながら、楽しんだ。

仏典を読む時間は、
おれにとって、「霊的な時間」だった。

読んでもとにかくわからん。
不生不滅なんて言われたって・・・。
でも、おれも超ヒマだったので、
自宅のソファに寝転び、窓の外の青空を眺めながら、
ずーっと不生不滅について考えた。
ずーっとずっーと考えているうちに、
なんとなくその面影が見えてくる。
それが「霊的な時間」へのプロセスとなる。
というより、
そのプロセス自体がたいへん「霊的」なのである。

それは写経することと同じ精神構造にある思う。

わかんねー、
ぽかーん、
うーむ、
へろへろ、
ぶかー、
むむ、
これ、ひっとするとあれか・・・

みたいなプロセスが、
借金に追われ、失業中で、悶々とするおれを救った。

「思考停止」はちっとも悪くない

 

よく「あいつ思考停止してんじゃね!?」などと、
人をからかう人がいるが、
おれはむしろ、「思考停止男」と呼ばれたいのだ。
そんな名誉な勲章はない。

みなさんの「思考」って、何ですか。
「思考」なんてというと、なんだか、知的で高級なイメージがあるが、
ほとんどの人は、

腹減った、
金が欲しい、
かっこよく見られたい、
いい男(女)とセックスしたい、

などのたわごとを考えているのだ。

そんな煩悩的なことに妄想を膨らませているから、
おれのように精神が崩壊するのだ。

思考停止とは、ある意味、禅的なスタイリッシュな行為だ。
どーんとこい、思考停止、
待ってました、思考停止。

私ごとだが、
最近、原稿も書かずに、ギターの練習と筋トレばかりやっている。

しかし、この2つの行為、たいへん写経的なのだ。
まさにこれはじじいのおれの宗教的行為なのだ。

無心で、指を動かす、
無心で、筋肉を動かす、

それはおれにとって、かけがえのない時間なのだ。
大げさに言えば、これもまた、おれの「霊的な時間」だ。

おれはこの感覚を味わいたくて、ふたたび仏典、
つまり「法華経」をかじりだした。

わからん、
まったくお手上げだ。

でも、それがいい。
それで、いいのだ。

あなたがきっと救われる「霊的な時間」〜「法華経」序品その3

時間の感覚を打ち壊される


法華経は最初のところから、
なんだかわけがわからなくなる。
それぞれの文章が難解なわけではないのに、
全体として、「ぽかーん」としてしまう。

どうしてだろう。

おれが思うに、いろんな人が出てきて、
いろんなことを語るからだろう。

出だしは、阿難(アーナンダ)が私はお釈迦様にこう聞いた、とはじまるのに、
その中に、誰それは誰それにこう言った、
またその中に、誰それがこう言った、などと書かれていて、
しかもそれが過去の話だったり、未来の話だったりする。
いろんな人(?)がやってきて、
いろんな時代のいろんな「法華経」を説いている。

主語と述語が交錯して、
さらにその中に時制が交錯する。

ぐちゃぐちゃ状態だ。

というふうに見える。
しかし、こんなに読み継がれてきたお経が、
ぐちゃぐちゃであるハズもない(笑)

そこは計算され尽くした壮大な「入れ子」構造になっているのだろう。

それをいちいち分析して、解き明かしていくのは高名な学者先生にお任せしよう。
おれにはそれを分析する能力も、気力もない。

おれたちがここで感じとるポイントは、
さきほど述べた「ぽかーん」で良いのだと思う。

法華経」はのっけから、
おれたちをかましてきたのである。
おれたちの時間の観念をぶちこわしにかかってきたのだ、
そう思えば良いのだろうと、おれは感じる。

現実に縛られたおれたちが、救われるのは「霊的時間」しかない。

 

だから、「法華経」を味わい尽くすには、
人生が短すぎるわけだ。

それてにしても、
この「ぽかーん」とは、いったい何だろう。

おれはそれを「霊的時間」と呼びたい。

おれたちは過去の失敗、
たとえば、失恋、リストラ、降格、借金、他人を傷つけた、などなど、
さまざまなトラウマ的な事柄を背負って生きている。
背中にはたくさんの人の憎しみや恨みを背負っており、
おれたちはさぞ重たい荷物を背負って、娑婆を這いつくばっているのだろう。

また、将来の不安もたくさんある。
年金がもらえない、
老後を一人で暮らさなければならない、
病気が増えてきた、
単純にすべてが衰えてきた、など、
不安で枕を高くして眠れない状態にある。

過去も未来もどん詰まりである(笑)

そんなおれたちが一時、
娑婆の苦しみを忘れている瞬間、
それが「ぽかーん」の時間だし、
それをおれは「霊的時間」と呼びたいのだ。

「霊的時間」なんていうと、
イエス様の前で、賛美歌を歌ったり、
山にこもって瞑想するなどをしている時間のように感じるかもしれないが、
「霊的時間」は何も清らかなピープルのものだけではない。

競馬で大穴を当てたけど、事情が飲み込めなくて、唖然としている瞬間、
デート後に帰りの電車から呆然と眺める夕日、
朝起きたら雪が降っていて、あたり一面が真っ白なのに、驚いた瞬間、など、
おれたちの前には、天使がふわっと通り過ぎているのである。

法華経」を読むというのは、
まだ全部読んでいないのに、無責任きわまりないが、
その壮大な「入れ子世界」に迷い込んで、
「ほかーん」としたり、神々しさを感じたり、
時間の無限性に畏怖の念をおぼえたり、
そーゆー体験をすることなのかな、と思った。

日常にもだえ苦しんでいるおれにとっては、
格好の「癒やしの書」となるはずだ。

「法華経」を読むと、道元も思い出す 〜「法華経」序品補足

時空間の概念がかく乱される

 

どうもです。
前回、前々回と、「法華経」の冒頭部「序品」について、
ざっくりとしたお話をした。
読者の方から「わかりにくい」というご指摘もあった。

なので、ちょっと補足しておく。
おれが「序品」を読んで感じていること。
それは、仏が現在・過去・未来と、
あますところなく存在していて、
それらが縦横無尽に行き来しているイメージを沸き立たせたことだ。

未来の如来はいまここで修行している自分であり、
そんな未来の如来も過去からずっと存在している。
時空間の観念がかく乱されるのである。

この攪乱具合がたいへん心地よい。

人は過去に生まれて、現在、このシャバで苦しみ、
やがて未来に死に果てていく。

あまりに不条理な人間世界。
しかし、その不条理さも、
この時間の観念に縛られているから生じるものである。

曹洞宗開祖・道元も時間について考えていた

 

法華経」の話をしているのに、
禅宗道元の話を持ち出すのもなんだが、
おれは「序品」を読みつつ、
道元の「正法眼蔵」の次のようなくだりを思い出した。

謎めいた言葉だが引用しておく。
わからなくてもいいから、目を通していただきたい。

たき木(薪)、はひ(灰)となる、
さらにかへりて(返りて)たき木となるべきにあらず。
しかあるを、灰はのち、薪はさき(先)と見取すべらかず。
知るべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断せり。
灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
かのたき木、はひとなりぬるのち、
さらに薪にならざるがごとく、
人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生の死になるといはざるは、
仏法のさだまれるならひなり。
このゆえに不生という。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。
これゆえに不滅という。
生も一時のくらゐ(位)なり、死も一時のゐなり、
たとへば冬と春との如し。
冬の春となるをおもはず、春の夏となるといはぬなり

簡単に言ってしまえば(とうてい簡単には言えないが・・・)、
薪(たき木)と灰(はひ)の関係は、
薪(たき木)が燃えて、灰(はひ)になるのではなく、
薪(たき木)は薪(たき木)、灰(はひ)は灰(はひ)として存在していて、
薪(たき木)自体が、灰(はひ)になるわけではない、というのである。

たとえば、春自体が夏になるのではなく、
春自体は春として、夏自体は夏として存在する。

なんでかというと、
薪(たき木)を薪(たき木)だと、
見るのはおれの一瞬の主体的な行為であり、
灰(はひ)を灰(はひ)だと
見るのもおれの一瞬の行為だからだ。

結局、おれが見るから、薪だと灰だのと判断するわけで、
その都度、薪や灰を見ている一瞬に自分宇宙の中で、
存在が成立するだけだからだ。

ここに「不生不滅」の考えが導き出される。

生も死も、おれが、
「これは生きてる」「これは死んでる」と判断する、
その瞬間にしか成立しないものだ。
だから、「生の死」とは言わないわけで、
これを「不生」という。
逆に「死」が生まれるとも言わないわけで、
これを「不滅」という。

要はおれ自身がその瞬間に何を見たかだ。

これを読むたびに、
おれの時間の観念はぐらぐらと揺らぐ。

結局、過去や未来などをあれこれと詮索するのは、
無意味なことであり、
そもそも、過去や未来が存在するかどうかも怪しいものだ。

そういうことは、最新科学でもとやかく言われることだ。

法華経」には、方便として、過去や未来がいろいろ出てくるが、
仏の世界は実は、そんな人間の解釈では、
判断できないような無限大の世界が広がっている。

おれたちがちまちま考えている過去や未来など、
仏にとっては、どうでもいいことかもしれない。

 

時間の概念を超越するスペクタクル・ロマン 〜「法華経」序品その2

過去が未来へ、未来が過去へ


おれたちは過去を悔やみ、未来を憂いて生きている。
毎日は後悔と不安で渦巻いている。

しかし、もし、過去や未来が、
おれたちが考えている手の届かないものでなかったら、
おれたちが過去から未来に渡って、永遠の宇宙につながっていて、
祝福された存在であるとするならば・・・。

おれたちは、見捨てられているわけでも、
孤立しているわけでもないのだとしたら。

法華経」の冒頭の章ともいうべき、序品は痛快だ。
過去から未来、未来から過去、
過ぎ去ってしまったものでも、まだ見ぬものでもない、
仏は自在にこの宇宙に偏在しているのだ。

少し長くなるが引用を続けたい。
いつものように、正木晃先生の「現代語訳 法華経」より。

文殊師利菩薩は、弥勒菩薩らにこう語った。

菩薩たちのなかに、妙光という名前の菩薩がいました。
かれは八百人の弟子をひきつれていました。


日月燈明如来は瞑想の後、妙光菩薩のために、
大乗仏教の経典を説いたと文殊師利菩薩は言う。
その後、予言を終えた日月燈明如来は真夜中に涅槃に入った。

 

 

日月燈明如来が入滅されたのち、妙光菩薩は、
このうえなくすばらしい法華経をおぼえて、
八十小劫(注・永遠に近くとんでもなく長い時間)のあいだ、
人々のために説法しました。
日月燈明如来の八人の王子たちはみな、
妙光菩薩を師として、修行しました。

 

 

妙光菩薩の八百人の弟子のなかに、
求名(ぐみょう)という者がいました。
その名前のとおり、名声欲にとらわれていました。
また、いろいろな経典を読んだり唱えたりしても、
意味が理解できず、忘れてばかりいました。


それでも、求名はがんばった。
百千万億もの如来たちに会い、お仕えした。

文殊師利菩薩は言う。

弥勒菩薩さん。
よくおぼえておきなさい。
あのときの妙光菩薩こそ、このわたしなのです。
あのときの求名菩薩こそ、
あなたなのです。

 

遠い過去に存在した菩薩が、
いま、面前にいる文殊師利菩薩であり、
遠い未来におれたちを救ってくださるといわれる
弥勒菩薩が、そのかつて名声欲に溺れていたあなたなのだと。

なんだか壮大すぎて、
ぼけーっとしてしまう話である。
しかし、このぼけーっとしたこと、
壮大すぎて唖然としたあなたの感覚は正しい。
それこそが大切なことだ。

つまりわれわれの思考・感覚では、
仏の世界はとうてい理解できないのだ。
お釈迦様は仮に人間の姿をしていたが、
本来仏とは、形も色も想像できない存在なのだ。
そこに畏敬がうまれるとし、
そんな完全体であるからこそ、
おれたちが芋虫みたいに這いつくばっていることは、
すべてご存じで、すくい取ってくださるはずなのだ。

比類なき存在、
圧倒的な存在、
想像も及ばない存在。

それが仏の本性なのだ。

そう考えると、
おれたちが唖然とした感覚は、
ある意味、「救い」でもある。
唖然としている間は、
上司の顔も吹き飛ぶし、
恋人が今頃浮気しているんじゃないかとか、
腹が減ったとか、
性欲でモヤモヤするなんて感覚は、
吹き飛んでしまう。

それが信仰であり、
祈りなんだと、おれは思う。

現在・過去・未来・・・すべてを知ってくれているお方がいた〜序品その1

現在にも過去にも未来にも存在するお方とは

 

こんにちは。
萌え寺・了法寺のご住職と親しくさせていただき、
法華経」を読む機会を得た。
いままで苦手意識満載の「法華経」を読む気になったのは、
了法寺のご住職の「ホケキョー愛」に心を打たれたからに他ならない。

さて、長い長い「法華経」の最初の章は「序品」(じょほん)という。
最初から飛ばしてまっせ。
現在・過去・未来と話は縦横無尽に行き来して、
あたかもSFの世界みたいな「法華経」。
そのオープニングから、ぶったまげるようなことが書かれている。
ではその「序品」について、何回かヨタヨタと書きたい。
ここで引用するのは断りのない限り、
「現代日本語訳 法華経/正木晃著・春秋社」からである。

 

みなさん、想像することも考えることもできない遠い遠い過去世に、
如来がおられました。
その名前は「日月燈明」(にちがつとうみょう)といいました。
(中略)歴史や時間の制約を超えた智恵の持ち主であり、
過去世を知り尽くし未来世を知り尽くし煩悩を完全に克服した方であり、
完全な悟りに到達した方であり、
聖なる世界のことも俗なる世界のことも知り尽くした方であり」
(一部省略)

 
日月燈明・・・なんと美しい名称。
遠い遠い昔から、日月燈明がいて、
おれたちの世界を包み込んでいる。
頼もしいではないか。
しかも、いまも、未来に渡っても、このお方が守っていらっしゃる。
横道にそれるが、おれは「お方」と言ったが、
このお方が、人間でないばかりか、人の形をしているかどうかも、
定かでない。
そういう人間の存在を遙かに超越した存在なのである。
いや、もっと言えば、「存在」と言っていいかもわからない。

おれたちは「仏」というと、お釈迦様の姿を思い浮かべるが、
実際、「仏」がどんな姿をしているかなんて、
誰にもわからないのである。


この日月燈明如来が涅槃に入られたのち、
また如来が出現されました。
その名前は、同じく、日月燈明といいました。

 
ううー。
唸るだけだ。
これだけ読んだだけでも、ゾクゾクッとする霊感の強い方もいるだろう。
おれは、何か畏敬の念を感じた。

このようにして、全部で二万の如来たちが、
まったく同じ名前の日月燈明という名前をおもちでした。

 

これは非常に謎めいた話である。
みなさんはこれをどう考えますか。
専門家の方々は諸説お持ちでしょうが、
せっかくど素人が読んでいるのだから、
ど素人の見解をこそっとつぶやきましよう。

過去や未来は人間が考え出した幻影!?



世界、いや、この宇宙というものは、
おれたち人間が意味づけする以前に、
ただありのまま、そのまんまに、ただ存在しているのであり、
あとから勝手に、過去だの未来だのと、
定義しているだけなのではないか。
本当は過去や未来なども存在していなく、
ただ「ある」、それだけではないのか。
いや、ただ「ない」のかもしれない。

なんてというと、わかりにくいが、
おれたち、三次元に生きている人間には、
まったく理解できないかっこうで「ある」のではないか。
それが、「日月燈明」というお方の実相なのではないだろうか。

ちょっと肩の荷を下ろしてみる



そう考えると、この娑婆、この世の中がちっとは楽に考えられないか。
おれたちは日々、ハナクソ見たいことで、
一喜一憂して、泣き、怒り、笑っているが、
そんな些細なことが、吹き飛んでしまうほど、
この宇宙は壮大だし、その宇宙すら、無限の数だけ存在すると、
法華経」はいっていると、おれは想像した。
法華経」を読む。
正直、退屈な描写も多い。
しかし、読後に感じる心の解放感は格別。

みなさんも了法寺でおれたちとホケりませんか。

おれが見つけた新しい経典「法華経」

人生にまた災難が訪れる

 

お久しぶりです。
おれはまた新たな局面を迎えたので、ブログを再開します。

おれはいま、52歳になった。
はっきりいって、じじいである。

これを読んでくださっているみなさんはおそらく、
もっと若くてやりたいことがたくさんあり、
体力も気力も勇気もあって、
未来に向かって突き進んでいるかと思う。

ところが、おれはめっきり歳をとった。
そこで、おれはダイエットと筋トレをして、
昨年、17キロしぼった。
これは我ながら画期的だった。

しかし、老化というものは待ってくれない。
老眼になるし、シワも増えた。

正直、老いるのがこわいのだ。
みなさんだって、あっという間に、おれのようになるはずだ。
やりたいことの100分の1も達成しないまま・・・。


朽ちながら、夢をゴミ箱に続ける、苦渋の日々。
このままでいいのか、いやよくない。
しかしも何も打つ手はない。
唯一の救いとなっていたはずの執筆活動も、
2年前に停止して、筆を折ったままである。


おれは再び、精神的なピンチに陥ってきた。

法華経」は魂を解放するのだろうか!?



そんなおれが、このピンチを抜け出るきっかけを得た。
「般若心経」で精神的危機を脱したおれは、
あらたな経典と出会った。

それが「法華経」である。

このきっかけを作ってくれたのは、
東京・八王子にある萌え寺・了法寺のご住職だ。
了法寺をご存じですか。

こちらですよ。

ご住職とはここ最近、交流をあたためている。
今日もドライブを楽しんだところだ。
ご住職のことは、のちのち話していこう。

今日はみなさんお待ちかね(!?)の「法華経」について、
さわりを語りたい。

法華経」の成立やうんちくなどは、
みなさん、あまり興味ないだろう。

おれもなかった。

ただ、いろんな神様やらなんやらが、
ごちゃごちゃでてくる「神様オールスターズ」の経典で、
「般若心経」などに比べると、
なんだか、ごちゃごちゃした印象。
スタイリッシュな「般若心経」に対して、
ごった煮的、大衆的な書物という感じがして、
なんだか、あまり興味を持てなかった。

了法寺のご住職とのこの1年余の交流において、
何度も通読を勧められたが、のらりくらりと、まさに「逃げ」ていた。

しかし、今回のおれの精神的危機で、
わらにもすがる心地でいたとき、
住職から画期的な翻訳本をプレゼントされた。

 

現代日本語訳 法華経

現代日本語訳 法華経

 

 

これだ。これは基礎知識なくても、「法華経」が読める。

まあ、そういう経緯はさておき、
法華経」は最初から飛ばしている。

ざっくり言うと、
冒頭の方で、こんなことを言っている。あくまでも、ざっくりだ。
お釈迦様から弟子たちへの言葉だ。

おまえらに、悟りの境地なんかわかるはずがねえ。
だから、おいらはもう説法なんか、やーめた、と。


弟子たちは超驚く。
そりゃそうだろう。
少なくとも、そこいらへんの庶民よりは自分たちは、
お釈迦様の言葉を深く理解しているつりなんだから。

ふ、ふ、ふ。
法華経」というのは、そんな大胆なことをのっけから言うのである。
仏教をかじったことのある人なら、もうこれで読みたくなるはずだ。
仏教に興味なくても、お釈迦様の真意は知りたいはずだ。

お釈迦様にも見捨てられるひ弱き人間の、
魂の解放、永遠の安寧、いわゆる悟りなど、
われわれにはとうてい得られないのか・・・。


などと、えらそうに言っているおれだが、
法華経」は正直、初見である。

だからこうして、みなさんと一緒に読み解き、
おれなりに考えたことをこのブログでみなさんに伝えていきたいと思う。

了法寺はオモロイ!

ちょいごぶさたでした。

八王子の萌え寺・了法寺を訪ね、ご住職と盛り上がりましたので、

もうひとつブログを開設しました。

こちらも併せて、よろしくお願いいたします。

 

「愉快な住職と読む! グレート・ザ・法華経」