山の中の病院での闘病生活

32歳のとき、僕は統合失調症と診察されました。

それは僕にとって、青天の霹靂。寝耳に水でした。

かつては忌まわしい名前で呼ばれていたあの恐るべき病気。
それにいま、自分がかかっている。

諜報部員・カールも実は僕の妄想で、実在しないという真実。

僕はそのことをなかなか理解できませんでした。

家族はこう言ったものです。
「大丈夫、お山の病院までカールは監視にこれないから」と。

そう、僕は東京郊外の山の中にある病院に通うことになったのです。
最初は入院すべきと先生にも勧められましたが、
それでは僕がかわいそうだと、デイ・ケア、つまり、朝から夕方までその病院で過ごすことになったのです。

僕はお山の病院に行く前日まで抵抗しましたが、
自宅での療養も妄想が激しくて、無理だと断念して、
半泣きで病院のバスに乗ったのです。

そこは空気のきれいな緑が美しい病院でした。
私の病棟には、思春期の男女を中心に、十数名が在籍していました。
朝の合唱、午前中のドッチボール、午後のおやつ作り・・・。
いろいろなプログラムが用意され、みんなでそれをやっていたのです。
お互いの病名は知らされませんでしたが、
似たような症状の子はいました。
でも、思春期の子たちの中で、僕は長老でした。
浮いていました。
みんながカラオケに興じていても、僕は部屋の片隅で、
ウィトゲンシュタインの思想書を読んでいました。
というより、読んでいるフリをしていました。
それは「おれはここにいるべき人物ではない」と看護師さんやスタッフさんにアピールする狙いがあったものと回想します。

長い夏でした。
僕は仲間の中で孤立していましたが、二人の仲間ができ、
よく帰りに下山して、駅前のファミレスで一緒にジュースを飲んだのを覚えています。
「し、しごと、しているんですか」と二十代の二人に尋ねられ、
「記者をしています」と毅然として答えると、
彼らは羨望とも諦めともつかにい目線で、僕を見つめたものです。
「お、おれ、さ、昔は働いていたんだけど、人を殴っちゃうからさ、だめなんだ」と悲しい顔で言っていたのが、今でも心を打ちます。

毎日、毎日、お山の病院に行き、プログラムにはいやいや参加して、
帰りに仲間とファミレスに寄る。
そんな生活を延々と続けました。

先生に何度も噛み付きました。

「私は、もう治りました。ここから退院させてください」
もうしつこいくらいに訴えました。
「でも、いまのきみは仕事をできる状態ではないよ」と言われ反抗しましたが、
知能検査をすると、まったく問題が解けない自分がいました。
受験勉強でしのぎを削ってきた「勝ち組」だったはずの自分が、
たった数問しか、答えられないのです。
これには、私も打ちのめされました。

通い始めて、夏も終わり、初冬になった頃、
先生たちも根負けして、
私を自宅療養することに同意してくれました。

最後の日、私は思いもかけないプレゼントをもらいました。
それは入所者全員のメッセージ入りの色紙でした。
「お仕事、復帰、おめでとうございます」
「ずっと健康でいてください」
など、さまざまなメッセージが記されていました。
僕は最後まで彼らとうち解けなかったのに、
こんなに心のこもったエールを送られたことに目頭が熱くなりました。
そりの色紙はいまでも宝物として保存してあります。