おれが見つけた新しい経典「法華経」

人生にまた災難が訪れる

 

お久しぶりです。
おれはまた新たな局面を迎えたので、ブログを再開します。

おれはいま、52歳になった。
はっきりいって、じじいである。

これを読んでくださっているみなさんはおそらく、
もっと若くてやりたいことがたくさんあり、
体力も気力も勇気もあって、
未来に向かって突き進んでいるかと思う。

ところが、おれはめっきり歳をとった。
そこで、おれはダイエットと筋トレをして、
昨年、17キロしぼった。
これは我ながら画期的だった。

しかし、老化というものは待ってくれない。
老眼になるし、シワも増えた。

正直、老いるのがこわいのだ。
みなさんだって、あっという間に、おれのようになるはずだ。
やりたいことの100分の1も達成しないまま・・・。


朽ちながら、夢をゴミ箱に続ける、苦渋の日々。
このままでいいのか、いやよくない。
しかしも何も打つ手はない。
唯一の救いとなっていたはずの執筆活動も、
2年前に停止して、筆を折ったままである。


おれは再び、精神的なピンチに陥ってきた。

法華経」は魂を解放するのだろうか!?



そんなおれが、このピンチを抜け出るきっかけを得た。
「般若心経」で精神的危機を脱したおれは、
あらたな経典と出会った。

それが「法華経」である。

このきっかけを作ってくれたのは、
東京・八王子にある萌え寺・了法寺のご住職だ。
了法寺をご存じですか。

こちらですよ。

ご住職とはここ最近、交流をあたためている。
今日もドライブを楽しんだところだ。
ご住職のことは、のちのち話していこう。

今日はみなさんお待ちかね(!?)の「法華経」について、
さわりを語りたい。

法華経」の成立やうんちくなどは、
みなさん、あまり興味ないだろう。

おれもなかった。

ただ、いろんな神様やらなんやらが、
ごちゃごちゃでてくる「神様オールスターズ」の経典で、
「般若心経」などに比べると、
なんだか、ごちゃごちゃした印象。
スタイリッシュな「般若心経」に対して、
ごった煮的、大衆的な書物という感じがして、
なんだか、あまり興味を持てなかった。

了法寺のご住職とのこの1年余の交流において、
何度も通読を勧められたが、のらりくらりと、まさに「逃げ」ていた。

しかし、今回のおれの精神的危機で、
わらにもすがる心地でいたとき、
住職から画期的な翻訳本をプレゼントされた。

 

現代日本語訳 法華経

現代日本語訳 法華経

 

 

これだ。これは基礎知識なくても、「法華経」が読める。

まあ、そういう経緯はさておき、
法華経」は最初から飛ばしている。

ざっくり言うと、
冒頭の方で、こんなことを言っている。あくまでも、ざっくりだ。
お釈迦様から弟子たちへの言葉だ。

おまえらに、悟りの境地なんかわかるはずがねえ。
だから、おいらはもう説法なんか、やーめた、と。


弟子たちは超驚く。
そりゃそうだろう。
少なくとも、そこいらへんの庶民よりは自分たちは、
お釈迦様の言葉を深く理解しているつりなんだから。

ふ、ふ、ふ。
法華経」というのは、そんな大胆なことをのっけから言うのである。
仏教をかじったことのある人なら、もうこれで読みたくなるはずだ。
仏教に興味なくても、お釈迦様の真意は知りたいはずだ。

お釈迦様にも見捨てられるひ弱き人間の、
魂の解放、永遠の安寧、いわゆる悟りなど、
われわれにはとうてい得られないのか・・・。


などと、えらそうに言っているおれだが、
法華経」は正直、初見である。

だからこうして、みなさんと一緒に読み解き、
おれなりに考えたことをこのブログでみなさんに伝えていきたいと思う。