時間の概念を超越するスペクタクル・ロマン 〜「法華経」序品その2

過去が未来へ、未来が過去へ


おれたちは過去を悔やみ、未来を憂いて生きている。
毎日は後悔と不安で渦巻いている。

しかし、もし、過去や未来が、
おれたちが考えている手の届かないものでなかったら、
おれたちが過去から未来に渡って、永遠の宇宙につながっていて、
祝福された存在であるとするならば・・・。

おれたちは、見捨てられているわけでも、
孤立しているわけでもないのだとしたら。

法華経」の冒頭の章ともいうべき、序品は痛快だ。
過去から未来、未来から過去、
過ぎ去ってしまったものでも、まだ見ぬものでもない、
仏は自在にこの宇宙に偏在しているのだ。

少し長くなるが引用を続けたい。
いつものように、正木晃先生の「現代語訳 法華経」より。

文殊師利菩薩は、弥勒菩薩らにこう語った。

菩薩たちのなかに、妙光という名前の菩薩がいました。
かれは八百人の弟子をひきつれていました。


日月燈明如来は瞑想の後、妙光菩薩のために、
大乗仏教の経典を説いたと文殊師利菩薩は言う。
その後、予言を終えた日月燈明如来は真夜中に涅槃に入った。

 

 

日月燈明如来が入滅されたのち、妙光菩薩は、
このうえなくすばらしい法華経をおぼえて、
八十小劫(注・永遠に近くとんでもなく長い時間)のあいだ、
人々のために説法しました。
日月燈明如来の八人の王子たちはみな、
妙光菩薩を師として、修行しました。

 

 

妙光菩薩の八百人の弟子のなかに、
求名(ぐみょう)という者がいました。
その名前のとおり、名声欲にとらわれていました。
また、いろいろな経典を読んだり唱えたりしても、
意味が理解できず、忘れてばかりいました。


それでも、求名はがんばった。
百千万億もの如来たちに会い、お仕えした。

文殊師利菩薩は言う。

弥勒菩薩さん。
よくおぼえておきなさい。
あのときの妙光菩薩こそ、このわたしなのです。
あのときの求名菩薩こそ、
あなたなのです。

 

遠い過去に存在した菩薩が、
いま、面前にいる文殊師利菩薩であり、
遠い未来におれたちを救ってくださるといわれる
弥勒菩薩が、そのかつて名声欲に溺れていたあなたなのだと。

なんだか壮大すぎて、
ぼけーっとしてしまう話である。
しかし、このぼけーっとしたこと、
壮大すぎて唖然としたあなたの感覚は正しい。
それこそが大切なことだ。

つまりわれわれの思考・感覚では、
仏の世界はとうてい理解できないのだ。
お釈迦様は仮に人間の姿をしていたが、
本来仏とは、形も色も想像できない存在なのだ。
そこに畏敬がうまれるとし、
そんな完全体であるからこそ、
おれたちが芋虫みたいに這いつくばっていることは、
すべてご存じで、すくい取ってくださるはずなのだ。

比類なき存在、
圧倒的な存在、
想像も及ばない存在。

それが仏の本性なのだ。

そう考えると、
おれたちが唖然とした感覚は、
ある意味、「救い」でもある。
唖然としている間は、
上司の顔も吹き飛ぶし、
恋人が今頃浮気しているんじゃないかとか、
腹が減ったとか、
性欲でモヤモヤするなんて感覚は、
吹き飛んでしまう。

それが信仰であり、
祈りなんだと、おれは思う。