「意図する罠」を抜ける

 

私は「やれない、やらない人間」

 

昨夜、私は友人にこう言われました。
「きみはもっとやれる人間だよ」と。

いわゆる「励まし」ととってよいだろう。
そのよう気持ちを私に向けてくれたことに感謝する。

 

しかし、一方で、深い孤独を味わった。
なぜなら、私は「もっとやれない人間」を目指しているからである。

それは他人に理解してもらうことはまず難しい。
だけど、もし自分と同じ思いをいだく人がいるなら、なんらかの心のアクセスができると思い、少し書いている。

「もっとやれる」の意味を考える



「もっとやれる人間」とは、つまりどんな人間か。

それは「この時代の中、2017年のいまの日本の現状の中で、成功を収めること」だろう。

この時代のノリに合わせて、みんなの賞賛を得ることだろう。

この時代に同期、リンクして、社会的あるいは、経済的に成果を得ることだろう。

 

もっと、もっと。もっと、もっと。

 

 

40代で人生を降りる

 

 

私は持病が30歳頃、発病して、社会復帰したのは40歳ぐらいだった。
病気前は、バブル時代で、私も時代の中でスイスイと泳いでいた。
いわゆる「イケイケドンドン」の時代である。

その後、統合失調症という病に落ち、妄想と幻覚の中で、生き地獄を見た。

山の中の治療施設に半強制的にいたこともあった。

その後も、後遺症的な重いうつ病に苦しんだ。

そこから社会へと降りてきたとき、私はとまどった。


見える風景がそれまでとは、まったく違った。

 

しかし、それでも私はそこで「夢をもう一度」とばかりに、イケイケなノリを取り戻そうと躍起になった。

ブラック企業を転々として、もう一旗上げることに全力を傾けた。

そして、中堅出版社に潜り込んで、業界人的な生活を再現しようとした。

しかし、何もできなかった。

勤める会社の規模、収入、ステータス、すべてがスケールダウンしていたし、昔のキレや瞬発力はすでに衰えていた。

そして、あるとき、ふと「何か」に気づき、都心の生活を離れた。

 

高感度な人間、トレンドをつかんだ人間、勝つことにこだわる人間・・・。

 

周囲の人は言った。「まだ諦める歳ではないよ、これからだよ」と。

 

 

「意図する罠」から逃げ出す

 

 

励ましの意図はわかる、しかし、それは励ましどころか、私を傷つけた。

私がいわゆる世間的に「人生を降りた」のは、やむを得ない理由によるところが多い。

収入減、ステータスの低下、家族との不和・・・世間的に見れば、同情されそうなことはたくさんある。たしかに「かわいそうな」人間であり、よくある「落ち目」な人生である。

しかし、私はいま、人生の中で、かなり自由に生きることができている。

もしかしたら、いちばん自由かもしれない。

 

なんで自由なのか、それはすべてを捨てて手ぶらになったから、と言ったら、たいへんわかりやすいが、そんなイージーな作業ではなかった。

 

私は「意図する罠」に陥らなくなったのだ。

 

「意図する」と文脈の牢獄へ堕ちる

 

 

少しややこしい話だが、つきあってもらいたい。
わかりやすい例をあげよう。

 

Twitterなどで、ウケを意識した狙い澄ましたツイートには、「いいね」がつく。

投稿者は自分の狙い通りの反応に満足する。「いいね」を押した人も、自分は時代にリンクしていると安心し、自己満足を得る。

 

この互助会的なシステムは、いまの時代を象徴している。

 

自己承認欲求ははっきり言って見苦しいものだし、みんなそれに薄々気づいているのに(気づいていない人もいる)、とりあえず、自分をごまかして、安易に「いいね」を押し続ける、そのことで自分もつながっていて、ひとまずは自分の立ち位置も安泰となる。まあ、もちつもたれつだ。

 

しかし、その互助会システムに入ることで失うものの大きさには多くの人が無意識的だ。

 

世の中の「意図しているもの」はこの高度資本主義社会の日本の、そして東京中心、電通などの広告代理店による「意図」に期せずして、乗っかろうという、安易な反応だ。

もはや日本人は電通なしには生きられない。

あなたの消費活動、いや、思考やマインドは、骨の髄から、広告にのっとられている。

こんなことを言えば、「ステレオタイプな発言だ」と非難されそうだが、非難されても私は言いたい。あなたは骨抜きだと。

 

トレンドという牢獄の中でもがいているだけだ。

 

みんな1週間もすれば忘れてしまうことに夢中になっている。

みんな1週間もすれば忘れてしまう人脈を失うことに不安をあらわにする。

 

孤独か、ひとりは孤独か。

つながりたいか、ゆるくつながりたいか。

 

私は小さなマスコミ村から降りたし、この広告世界から離れること、いや正確に言えば、離れる意志を持つことで、いくばくかの解放感を得た。

 

この東京という広告村はただひとつの文脈、コンテクストでしかない。

それを信じ切って、終わってしまった幻想を追う人、それに追従する人。

 

 

「意図」のないところに光は自然と降ってくる

 

 

少し仏教の話をしたい。

親鸞もまた「意図すること」に警戒心をもっていた。

というより、「意図」から逃れるために彼の信仰があったといってよい。

彼は「意図」のことを「はからい」といった。

「はかりごと」の「はからい」だ。

 

人生にウケを狙ってネタ化、演出するのがいまの気分だと厚顔無恥なことを言う人がいるが、そういう人を親鸞なら「はからい猛き人」と呼ぶかもしれない。

 

親鸞はいう、結局、人が救われるのは「はからい」をすべて捨てたときだと。

「意図」があるうちは、救いの光は降りてこないと。

 

私にも、思い当たる節がある。

プライドで凝り固まっていた若い頃、病気になったら、周囲の人たちは手のひら返しで私に冷たくなった。

私はまた信頼と人気を得るために、あくせくと時代にしがみついた。

しかし、それに挫折して、ある日、路上で、「助けてください」と叫んだことがあった。

誰かに対して言った言葉ではない。心の中の叫びを声にしただけである。

 

そのとき、光が降りてきた。

自分が救われるには、この傲慢な自我を放棄するほかはない、と。

 

 

立ち止まって泣くことを許す

 

 

そろそろこの文をまとめたい。

私たちは一見、人生というゲレンデをスイスイ滑っていると錯覚する。

しかし、それは仮の姿だ。

人は無意識の世界でみんな泣いている。

しかし、泣いていることすら気づいていない。

 

そのうちに、さまざまな「意図」というクレバスに落ち、抜け出せなくなる。

美しく見えるゲレンデのそこかしこに、クレバスはぱっくりと口をあけている。

 

ほとんどの人は顔では笑顔で、無意識には泣き叫びながら、人生というゲレンデを下っていく。

降りていったあとの風景は、誰にも見えない。

「意図」にとりつかれている間は。

何も見えない。

泣いていることすら気づかない。

 

私は立ち止まって泣く道を選びたい。

だからこの「村」から旅立ちたい。