物欲に苦しむ人に効く禅語

いやらしくない人なんていない

 

ある女性の知人が言っていました。

「私は街ですれ違った同世代の女性を見ると、

瞬時にどこのシャツを着て、どこの靴を履いて、

どこのバッグを持っているかを判断する。

するとその人がどのあたりに住んでいて、

どんなレベルの生活をしているかもだいだいわかる。

・・・わかったつもりになっている、自分はいやらしい人間だと思う」と。

 

いやらしくないですよ。

そういうことに気づいただけですばらしい。

 

それにしても、物質というものは、

しぶとく、かつ根強く、私たちの心のはびこっているものですね。

 

禅の公案に「本来の面目」というものがあります。

公案とは、禅の精神を育む質問、問題のようなものです。

 

「父母未生以前、本来の面目とは何か」。

要するに、両親が生まれぬ前のおまえの「本来の自己」とは、

一体何なのか、ということです。

 

生まれる前の自分は何なのか、

と言われてもなかなか答えられるものではありません。

この公案にはいろいろな見解がありますが、

わかりやすく考えるならば、

生まれ育ちも、学歴も、地位も名誉も財産も

なにも身につけていないそれ以前のもの、

どこどこのシャツとかバッグとかブランドとか

なんにも持っていないまっさらな魂とでも考えたら良いでしょう。

 

人は本来手ぶらで生きている

 

人はなにも持たずに、丸裸で生まれてきます。

さらに生まれる以前は肉体すら持っていません。

 

そして死んでいくときに、なにも持ち合わせていませんし、

焼かれてしまえば肉体すらありません。

 

つまり、一生の間に身につけたものなど、

神様からの借り物でしかないのです。

 

それなのに、人はそれを「所有」していると錯覚して、それに執着します。

 

冒頭の女性もそんな暮らしになんとなく違和感を感じていたのでしょう。

 

人間は本来、手ぶらです。

なにも失うものもありません。

物や概念に縛られて苦しむのは、

そろそろ終わりにしても良さそうです。