公衆便所の便座に座れない僕が、般若心経に出会って平気になった理由

なぜ、あの妄想地獄とそれに付随する神経症、うつ的症状の最中、
ぼくは般若心経の本を手にしたのだろう。

あの頃は、日常をもうろうとして 、どうやって毎日生きていたか、記憶にありません。
ドイツ人の諜報部員・カールに命を狙われ、崩壊した僕。
カールが消えたのちも 、便座に座れない、電車の手すりに触れない、紙がナイフのように思えて怖くて触れないなどの強迫神経症的なハイブロウな病理は治らず、一方で、ソファから起き上がれないという、うつ的な症状も抱えていた僕。

そんな僕がなぜ『ひろさちやの般若心経88講』を手にとったのだろう。

これは本能としか言いようがありません。

生きたいよー、生きたいよー、と心が叫んでいるから、
ぼくはこの本を無意識に手にとったのかもしれません。

この本で、まずぼくが気になったのは、般若心経の一節「不垢不浄」(ふくふじょう)の解説が気に入ったからでしょう。それがすべての始まりです。

「不垢不浄」。

意味なんとなくわかりますか。

「(この世には)きれいも汚いも存在しない」。

という意味です。

ひろさんの解説はユニークです。
簡単にその解説を紹介しましょう。

コップをひとつ用意します。
そこにうんちとおしっこを入れて放置します。
汚いですねー。
こんなコップは使いたくない。

このコップをきれいに洗い、
友人に酒を振る舞います。
友人に1万円のグラスだと告げます。
友人は「こんないいグラスで酒を飲むとうまいねー」と賞賛します。

うんちとおしっこが入っていたコップが、
高級グラスにも変身してしまう。

これが「空」を考えるヒントになります。

人間は自分独自の「色眼鏡」でモノを見て、判断します。
ゴキブリも小鳥も動物の仲間に過ぎないのに、
ゴキブリは汚く、小鳥はかわいいと見るのは、ただの偏見です。

人間はこんな「色眼鏡」で、ものごとに「レッテル」を貼り、
一喜一憂しているおろかな存在なのです。

それが腑に落ちたとき、僕の中の「常識」が崩れ去ったのです。

世の中には、きれいも汚いもない。

そう思えたとき、心が軽くなったのです。
僕らが固定化した感じ方や考え方に囚われているとき、
いろんなことが絶望的に見えてきますが、
そんなことは、ただの妄想でしかないのです。
すべては「空」なんです。

ここから僕は自分のちっぽけな「色眼鏡」を外す訓練を始めました。
僕は思い切って、公衆便所の便座に座ってみました。
最初はちょっとかゆい気がしましたが、じきに慣れてきて、
なんだ、座れるじゃないか、となったのです。

こんなもの別に汚くはない。
汚いと僕の心が決めつけているだけだ。

そう考えられるようになると、
電車の吊革も、外国人との握手も(当時はエイズに対する偏見が強かった)、
ぜんぜん平気になったのです。
それだけでも僕にとっては革命的な事件だったのです。