他人を受け入れること、世界を受け入れること

仏教では、物事にこだわること、とらわれることをたいへん嫌います。

ところが、般若心経に出会う前の僕は、こだわり、とらわれの塊みたいな存在でした。
僕の得意だったのは、他人に「レッテル」を貼ること。

あいつはこういうやつだ。
こいつはこういうタイプの人間だ。

決めつけです。
相手のことがなんにもわかっていないのに、上から目線で何でもかんでも評価をつける。「レッテル」を貼って、自分の頭の中の整理ボックスに放り込んでしまうのです。

これはたいへん危険です。
人間というものは、とても多面的で複雑な存在です。
そして、さらに重要なことは、

人間も世界も変化する。
一時も同じ場所にはいない。

ということです。
世界は刻々と変化しています。
すべての生命は生まれては朽ち、やがて滅んでいきます。
その一方で、また新しい生命が生まれ、その生命は日々成長しています。

僕が上から目線で勝手に烙印を押したその人も、
実は日々変化しているし、成長しています。
僕の判断など、ゴミのようなものです。
宇宙の中のチリにも及びません。

そんなものを後生大事に抱えて、世の中を闊歩していた自分が恥ずかしいです。
プライドばかり高く、自分の意見に合わないものを容赦なく批判する自分は、
他人と関わる資格もありません。

般若心経の最大のテーマは「空」(くう)です。
「空」とは、この世界のあらゆる事物には、確固たる実体がないということです。
人は、他人や物事について、ああだこうだと批判をしますが、
そういう批判の対象も実は「空」なる存在で、
絶対的・固定的な存在ではありません。
日々、変化しているものです。
ああだ、こうだという批判は、一見的を得ているように見えても、
実は大きく現実とはかけ離れたものなのです。

僕はとても偉そうな人間でした。
病気をして、僕のことに不信感をもっていた人は、
全員離れて行きました。

僕は途方に暮れ、涙するしかありませんでした。
そしてゼロからまた新しい人間関係を構築していくほかありませんでした。

僕が自分に課したのは、

とにかく人の話をよく聞くこと。

でした。
つまらない話でも、不愉快な話でも、僕に対する批判でも、
とにかく聞くことからはじめました。
人は自分の話にじっと耳を傾けてくれる人を憎みません。
信頼関係を得たいなら、おべんちゃらなどを使うことでなく、
とにかく相手の話を聞くことです。

それは他人を受け入れること、ひいては、世界を受け入れることなのです。
そうです。

他人を受け入れる
世界を受け入れる

受け入れた人や世界を自分の解釈で評価しない。
未整理のままで、心の中の未整理ボックスにそっと保管しておくことです。

「そんなんじゃ、問題解決にならないじゃないか!?」

という批判があるかもしれません。
そうです。問題解決などしなくていいんです。
解決できる問題など、世界には何一つないんです。
仏教はそういう極端なことをいうことがあります。

僕はいま、大切な人々と交流させていただいています。
数は多くありません。でも大切な人々です。
僕は日々、彼ら彼女たちの話に耳を傾けます。
それが、大げさな言い方で言えば、「愛」なんだと思います。