仏教を愛する僕が、洗礼を受ける!?

こんにちは。昨日からちょっとふさぎこんでいました。
なんででしょう。
たぶん、昨日と今日は「無常」をハラに落とし込んでいなかったからでしょう。
他人も世界も、決して自分の思うようにはならない。
僕らができることは、他人や世界をただ、ありのままに見守るだけです。

さて、僕がどういうわけか、キリスト教の洗礼を受けた話をしましょう。

仏教徒にとって、キリスト教はなんとなく、メソメソした暗い宗教に思えるでしょう。
「汝の敵を愛せ」の言葉に、マゾヒズム的偽善を感じた人もいるでしょう。

アメリカン・カルチャーにどっぷり浸ってきた僕には、キリスト教はお友だち・兄貴のような存在です。
日本人、とくに戦後の民主主義はおおむねキリスト教社会の文明を取り入れたものであり、あなたが嫌っても、実は根深くあなたの心に植え付いています。
このことは、『ふしぎなキリスト教』を読んでいただければ腑に落ちると思います。

僕は、自分が腹黒い人間だったと確信を持って言えます。
腹黒いとは、自我が強く、自分のことしか考えていない人間だったということです。
そして、僕は自分がどす黒く罪深い人間であることに、自己嫌悪を感じていました。

こんな最低の人間も、イエス・キリストは受け入れてくれます。
実際、キリストが誰よりも愛し、その命を持って救ったのは、罪人、売春婦、伝染病患者、不具者たちだったのです。

イエスは百匹の羊の群れより、一匹の迷える子羊を救おうとしました。

なぜなら、

僕らの罪はすでにゆるされている

からです。
イエスが辱めを受け、十字架の上で死んだのは、

きみたちの罪は、おれが全部背負って死ぬから、
あとは安心して生きなさい

というメッセージなのです。

仏教ではよく、

今日に死に、明日に生まれ変わる

などと言います。
それに近いフィーリングがあります。

僕らの罪はゆるされているのです。
だから罪人である僕らは今日で死に、
明日は明るい顔で生きていい

のです。

実際、過去をひきずってよいことはありますか。

何も生みません。
だったら、イエスの名のもとに、過去は今日で精算して、
明日から新しい自分を生きればいいのです。

冬の寒い日、僕は教会の洗礼式に臨みました。
般若心経に救われた僕が洗礼を受けたのです。

常識的にはおかしいかもしれません。
キリスト教の信者から非難されるだろうし、
僕はもはや信者とは言えないでしょう。
でも、僕の中で、イエスの愛は生きています。

と、正直に言ってみました。