目的のないことに集中すると自由になれる

長い長い病気と、その後の社会復帰に時間がかかった僕。

やっと中堅の出版社に潜り込み、ビジネス書の編集者をしていました。

その当時、ライフハックとか、レバレッジ仕事術などの、仕事を効率的・効果的に行う仕事術が流行っていました。

僕も追いかけましたね。研究しました。

基本、ミーハーですから。

ところが、そういうことを考えれば考えるほど、仕事が重くつらくなりました。
いかに効率よく、効果的に仕事をするか。
メール一本送るにしても、いかに効果的か、相手にインパクトを与えるか、などを考えていくうちに、うんざりしてきたのです。

特に、レバレッジという考え方には、げっそりしますね。
1のアクションで、10の効果を上げる、などという。

うざくないですか?

そんな狙いすましたコミュニケーションを人は望んでいるのでしようか。

仏教、特に禅の世界では、こういう考え方をたいへん嫌います。
1のアクションは別に0の効果でもいいんです。

大切なのは、その

1になりきること

です。その1にいかに集中して、ほかの雑念をシャットアウトできるか、
これが禅の修行です。

坐禅についても同じことが言えます。
坐禅は別に、心を晴れ晴れとするためにするものではないです。
坐禅に目的はありません。

ただ、坐る

それだけです。
効果などは、後からついてくるおまけのようなものだし、そのおまけに期待したら、その坐禅は台無しになります。

私たちは常に目的と結果を求められます。
でも、禅では、そんなものは、捨てておけ、というわけです。

僕は仏教に触れてから、いかに目的を忘れるかに気を配っています。

この行為の意味は? 目的は? 効果は?

などと考えるのは、本来の自分、自分の中のブッダを裏切る行為なのです。

実際、目的など考えずに、何かをしてみてください。

とても自由な気分になれます。
解放されます。

何にでも、効果を推し量っていた自分。
それが精神病からなかなか抜け出せなかった敗因の一つでもありました。

目的を捨てるには、「いま」の行為に集中することが大事ですが、
どうしても、集中できない人は、まず他人のためにする行為を増やしてみてください。

他人のためにする行為は、その行為自体と一つになれます。
自分を裏切ることがなくなります。

ぜひお試しをー。チャオ。