「善悪」とは窮屈な人間界の価値基準

人は自分に都合がいいとき、
「正義」という名のもとに、人を糾弾したり、
「罪悪」だと非難して、相手を痛めつけたりします。

窮屈ですね。

僕も以前は、自分のご都合に合わせて、「正義」などを振りかざす、
鼻持ちならない人間だったんです。

そして、時には、その「善悪」という世間の基準からはみ出している自分に、
激しく自己嫌悪を感じたりもしていました。

それで、アタマがどうにかなってしまったところがあります。

いったい、「正義」とは何なんでしょう。

日本を代表する仏教学者に、鈴木大拙という人がいます。
この人が、

 

無心ということ (角川ソフィア文庫)

無心ということ (角川ソフィア文庫)

 

 

『無心ということ』という本で、
こんなこと、言ってもいいのかいな、という大胆な発言をしています。
超おもしろいから、引用しますね。

けれども善悪できちんと分けられている世界はすこぶる窮屈な世界です。そんな世界では、ちょっと手を出せば、それは悪い、足を踏めば、それは悪い、人の頭を殴ったら、それは大いに悪いということになる。貧乏したり、金持ちになったり、善根をつんだり、功徳を増したりなどして、すこぶる窮屈な世界である。ところが宗教の世界はそういうことではない世界です。手で殴りたいと思ったら殴る。蹴飛ばしたいと思ったら蹴飛ばす、また反対に、蹴飛ばされたら、蹴飛ばされて倒れる。あるいは死んでしまう。いわば無茶苦茶の世界です。」

 


これは一見、危険な考え方のようにも受け取れます。
でも、僕らはこの発言になぜか惹かれるものがありませんか。

これは、つまり、分別する心、二元論の心を捨て去った世界のことを言っています。
分別する心、二元論の心とは何でしょう。

あいつはバカでおれは賢い
それは汚くあれは美しい
そっちが悪くこっちが正しい

みたいななんでも判断を加える世界のことです。

僕は仏教を通して、この窮屈さから解放されたのです。

大拙さんは、こういう無茶苦茶な世界にも、秩序というものが自然と成り立っていると言います。

山には雨が降り、入江には潮が満ちる。

誰もとやかく言わなくても、
あるべきものが、ちゃんとそこにある。

ごちゃごちゃしているけれど、誰がどうこうと意見を言わなくても、
あるところに、しかるべきものが、ちゃんと存在している。

あるがままの世界をあるがままの目で見る。

これが、禅の世界なんだなと感じています。

風が吹けば、木が倒れる。

誰が風の吹いていることを見ていなくても、
吹いた風で、誰も見ていなくてもバサリと木が倒れる。

ただ、それだけのこと。
それだけなのに、宇宙はずっと昔からその営みを繰り返している。

そこに、人間の解釈を加えると、
あるがままのものが、そうでないものに変容します。
そして、執着が生まれ、苦しみが生じます。

禅はこのような人間のフィルター、色眼鏡を取っ払う修行だとも言えます。

僕はこの絶妙な文章が大好きで、
迷いが生じると、読み返しています。

人間の恣意、バイアス、思い込みがを取り払うことで、
時に人は大きな解放感を得られるのかもしれません。