「でも」ではなく、「そうだね」ではじめてみた
「でも」は醜い
村上龍さんの小説、『超電導ナイトクラブ』にはおもしろい人がたくさん出てきます。
その中のひとりに、部屋の中に入ってくるとき必ず、
「それは正しい!」と叫ぶ人が出てきます。
圧倒的な現状肯定です。
ひかれますね、かなり。
引き寄せの法則について書かれた、秋山まりあさんの楽しい書籍
『100%自分原因説で物事を考えてみたら』という本も好きですね。
いまの自分はすべて自分が生み出した結果。
これを否定したら、自分の過去してきたこと、
すべてを否定することになります。
それって、神様への冒涜ではありませんか。
ニーチェのせむし男の話も好きです。
『ツァラトゥストラはこう語った』に出てきます。
せむし男から、こぶをとってしまったら、それはせむし男ではなくなる、
つまり彼は彼ではない、彼は彼の人生を生きない、という意味でしょうか。
自分の人生に「でも」からはじめる人は信用できません。
人生に限ったことではないです。
会話の最初に、「でも」からはじめる人の話はたいてい退屈です。
まずは相手の現状を肯定する
人は誰かに何かを伝えたい。
でも、相手はたいてい自分の意見で返したい。
自分の意見を言うのはいいけれど、
相手は、本当は自分の話を聞いて欲しいのではないでしょうか。
相談を持ちかける場合も、
たいていはもう結論は決まっていますから。
意思決定は結局、自分自身でするしかないのです。
僕はコミュニケーションするとき、
できるだけ自分の私見をはさまないように心がけています。
それは消極的なのではなく、むしろ相手の意見を肯定する、
積極的な態度だとおもうし、マナーだと思います。
思いやりって、どれだけ相手の心に着地できるかだと思うのです。
最近は、評論家みたいなコメンテーターみたいな人が多くて疲れます。
そんな自分も、昔、奢っていたとき、
自分をかなり辛口のコメンテーターと自負していた、
こっぱずかしい時代がありました。
穴があったら入りたいです。。