現在・過去・未来・・・すべてを知ってくれているお方がいた〜序品その1

現在にも過去にも未来にも存在するお方とは

 

こんにちは。
萌え寺・了法寺のご住職と親しくさせていただき、
法華経」を読む機会を得た。
いままで苦手意識満載の「法華経」を読む気になったのは、
了法寺のご住職の「ホケキョー愛」に心を打たれたからに他ならない。

さて、長い長い「法華経」の最初の章は「序品」(じょほん)という。
最初から飛ばしてまっせ。
現在・過去・未来と話は縦横無尽に行き来して、
あたかもSFの世界みたいな「法華経」。
そのオープニングから、ぶったまげるようなことが書かれている。
ではその「序品」について、何回かヨタヨタと書きたい。
ここで引用するのは断りのない限り、
「現代日本語訳 法華経/正木晃著・春秋社」からである。

 

みなさん、想像することも考えることもできない遠い遠い過去世に、
如来がおられました。
その名前は「日月燈明」(にちがつとうみょう)といいました。
(中略)歴史や時間の制約を超えた智恵の持ち主であり、
過去世を知り尽くし未来世を知り尽くし煩悩を完全に克服した方であり、
完全な悟りに到達した方であり、
聖なる世界のことも俗なる世界のことも知り尽くした方であり」
(一部省略)

 
日月燈明・・・なんと美しい名称。
遠い遠い昔から、日月燈明がいて、
おれたちの世界を包み込んでいる。
頼もしいではないか。
しかも、いまも、未来に渡っても、このお方が守っていらっしゃる。
横道にそれるが、おれは「お方」と言ったが、
このお方が、人間でないばかりか、人の形をしているかどうかも、
定かでない。
そういう人間の存在を遙かに超越した存在なのである。
いや、もっと言えば、「存在」と言っていいかもわからない。

おれたちは「仏」というと、お釈迦様の姿を思い浮かべるが、
実際、「仏」がどんな姿をしているかなんて、
誰にもわからないのである。


この日月燈明如来が涅槃に入られたのち、
また如来が出現されました。
その名前は、同じく、日月燈明といいました。

 
ううー。
唸るだけだ。
これだけ読んだだけでも、ゾクゾクッとする霊感の強い方もいるだろう。
おれは、何か畏敬の念を感じた。

このようにして、全部で二万の如来たちが、
まったく同じ名前の日月燈明という名前をおもちでした。

 

これは非常に謎めいた話である。
みなさんはこれをどう考えますか。
専門家の方々は諸説お持ちでしょうが、
せっかくど素人が読んでいるのだから、
ど素人の見解をこそっとつぶやきましよう。

過去や未来は人間が考え出した幻影!?



世界、いや、この宇宙というものは、
おれたち人間が意味づけする以前に、
ただありのまま、そのまんまに、ただ存在しているのであり、
あとから勝手に、過去だの未来だのと、
定義しているだけなのではないか。
本当は過去や未来なども存在していなく、
ただ「ある」、それだけではないのか。
いや、ただ「ない」のかもしれない。

なんてというと、わかりにくいが、
おれたち、三次元に生きている人間には、
まったく理解できないかっこうで「ある」のではないか。
それが、「日月燈明」というお方の実相なのではないだろうか。

ちょっと肩の荷を下ろしてみる



そう考えると、この娑婆、この世の中がちっとは楽に考えられないか。
おれたちは日々、ハナクソ見たいことで、
一喜一憂して、泣き、怒り、笑っているが、
そんな些細なことが、吹き飛んでしまうほど、
この宇宙は壮大だし、その宇宙すら、無限の数だけ存在すると、
法華経」はいっていると、おれは想像した。
法華経」を読む。
正直、退屈な描写も多い。
しかし、読後に感じる心の解放感は格別。

みなさんも了法寺でおれたちとホケりませんか。