あなたがきっと救われる「霊的な時間」〜「法華経」序品その3

時間の感覚を打ち壊される


法華経は最初のところから、
なんだかわけがわからなくなる。
それぞれの文章が難解なわけではないのに、
全体として、「ぽかーん」としてしまう。

どうしてだろう。

おれが思うに、いろんな人が出てきて、
いろんなことを語るからだろう。

出だしは、阿難(アーナンダ)が私はお釈迦様にこう聞いた、とはじまるのに、
その中に、誰それは誰それにこう言った、
またその中に、誰それがこう言った、などと書かれていて、
しかもそれが過去の話だったり、未来の話だったりする。
いろんな人(?)がやってきて、
いろんな時代のいろんな「法華経」を説いている。

主語と述語が交錯して、
さらにその中に時制が交錯する。

ぐちゃぐちゃ状態だ。

というふうに見える。
しかし、こんなに読み継がれてきたお経が、
ぐちゃぐちゃであるハズもない(笑)

そこは計算され尽くした壮大な「入れ子」構造になっているのだろう。

それをいちいち分析して、解き明かしていくのは高名な学者先生にお任せしよう。
おれにはそれを分析する能力も、気力もない。

おれたちがここで感じとるポイントは、
さきほど述べた「ぽかーん」で良いのだと思う。

法華経」はのっけから、
おれたちをかましてきたのである。
おれたちの時間の観念をぶちこわしにかかってきたのだ、
そう思えば良いのだろうと、おれは感じる。

現実に縛られたおれたちが、救われるのは「霊的時間」しかない。

 

だから、「法華経」を味わい尽くすには、
人生が短すぎるわけだ。

それてにしても、
この「ぽかーん」とは、いったい何だろう。

おれはそれを「霊的時間」と呼びたい。

おれたちは過去の失敗、
たとえば、失恋、リストラ、降格、借金、他人を傷つけた、などなど、
さまざまなトラウマ的な事柄を背負って生きている。
背中にはたくさんの人の憎しみや恨みを背負っており、
おれたちはさぞ重たい荷物を背負って、娑婆を這いつくばっているのだろう。

また、将来の不安もたくさんある。
年金がもらえない、
老後を一人で暮らさなければならない、
病気が増えてきた、
単純にすべてが衰えてきた、など、
不安で枕を高くして眠れない状態にある。

過去も未来もどん詰まりである(笑)

そんなおれたちが一時、
娑婆の苦しみを忘れている瞬間、
それが「ぽかーん」の時間だし、
それをおれは「霊的時間」と呼びたいのだ。

「霊的時間」なんていうと、
イエス様の前で、賛美歌を歌ったり、
山にこもって瞑想するなどをしている時間のように感じるかもしれないが、
「霊的時間」は何も清らかなピープルのものだけではない。

競馬で大穴を当てたけど、事情が飲み込めなくて、唖然としている瞬間、
デート後に帰りの電車から呆然と眺める夕日、
朝起きたら雪が降っていて、あたり一面が真っ白なのに、驚いた瞬間、など、
おれたちの前には、天使がふわっと通り過ぎているのである。

法華経」を読むというのは、
まだ全部読んでいないのに、無責任きわまりないが、
その壮大な「入れ子世界」に迷い込んで、
「ほかーん」としたり、神々しさを感じたり、
時間の無限性に畏怖の念をおぼえたり、
そーゆー体験をすることなのかな、と思った。

日常にもだえ苦しんでいるおれにとっては、
格好の「癒やしの書」となるはずだ。