この世界はすべて仮のもの。そしてすべて真実だ 〜「法華経」方便品

「方便」(ほうべん)とは何なんだ!?

 

「嘘も方便」ということわざは、みなさんも聞いたことがあるだろう。
これは嘘をついても、それは真実を伝えるための仮の手段である、ということである。

よく浮気した夫が、「昨日は上司との飲み会で・・・」などと、
かみさんに言い訳するのも、かみさんを悲しませたくないからついた思いやりの言葉、
みたいな言い方で、この言葉を使ったりする。
しかし、方便とはもともとこんなつまらない使い方をするための言葉ではない。

この方便とは、仏教の言葉で、
お釈迦様が、おれたち浅はかな連中に「真理」を伝えるために、
あの手この手で語ったたとえ話のことである。

お釈迦様もイエス様も、
その人その人に適した言葉で、真理を伝えようとする。

それが「方便」である。

 

おれたちは何一つ理解していない

 

法華経には「方便品」という章がある。
ざっくり言えば、お釈迦様が、
「おまえらに伝えてきたのは、
真実を伝えるための方便であった」

語っているのがこの章のポイントのひとつだ。

なんで、お釈迦様はおれたちに、
ストレートな表現で真理について教えてくれないのか。
なぜ、回りくどいたとえ話や比喩で語るのか。
答えは簡単だ。

おれたちは「真理」については、
とうてい理解できないからだ。

まるで、小学校の先生が、
一年生に語っているようにしか、お釈迦様は語ってくれないのだ。
学者先生など、仏教の専門家にすら、
仏の教え、つまり「真理」はそのまんま、理解できないのだ。

おれたちは、人生について、そして宇宙について、
知ったかぶりして偉そうなことをつぶやくときもある。
しかし、おれたちは何にも知らない「赤ちゃん」なのだ。
おんぎゃー。
しかし、この「おんぎゃー感覚」は非常に大事だ。

かのソクラテスさんも、「おれたちは無知だ」と言っていたが、
ほんとうにおれたちは「赤ちゃん」なのだ。
しかし、おれたちがただの「赤ちゃん」とは違うのは、

おれたちは「赤ちゃん」だということを
自覚できる「赤ちゃん」だということだ。


宇宙を感じとれ

 

お釈迦様は、おれたちに「方便」を語る。
「方便」は「方便」であり、
真理そのものとは、違う。

しかし、がっかりせんでくだされ。
おれたちは、
「方便」から、

真理を感じとるハートを
持っている。


またまた、正木先生の「現代日本語訳 法華経」から引用する。


舎利弗さん。だから、わたしは、方便を駆使して、
苦しみを滅する道を説き、
涅槃に入ったと説いたのです。
もちろん、涅槃に入ったと説いたからといっても、
ほんとうは涅槃に入っていません。
そもそも、この世に存在するものすべては、
如来の目から見れば、最初からずっと、
あるがままに真実のすがたそのものなのです。
そして、如来の弟子たちは修行を完成し、
来世においてきっと如来になれるでしょう。

 

なんと、お釈迦様は、涅槃になど入っていなかったのである。
涅槃に入ったというのも、「方便」であり、
そう言った方が、おれたちが、お釈迦様の言葉を、
重く受け止めるからそう言ったまでなのである。

仏(真理)には、最初も終わりもない、
永遠にそこに横たわっているものなのだ。
おれたちは少なくともそれを感じとるハートを持っている。

道元はこんな風に述べる。


峯の色 谷のひびきもみなながら
わが釈迦牟尼の 声と姿と

 

山の峰の色も、谷川を流れる水の音も、
すべてはお釈迦様の声と姿を体現したものである、と。

別の言い方をすれば、
この世界の森羅万象は、
すべてお経であり、真理そのものなのだ。

おれたち人間は、無知ではあるが、
少なくとも、それを感じとるハートがある。
峰の色や水の音、これらもある意味、
仮の現象であり、すべてが「方便」だ。
おれたちはその「方便」を介して、
真理に近づくことができるし、
そういう無垢な心をもって、世界を見続ける気持ちを持っていたいものだ。