他人の悲しみをどこまで受け止められるか

泣く人の涙と、抱擁する人の涙は別物


誰かが泣いている。
誰かが音もなく泣いている。

あなたは手を差し伸べる。
あなたは抱擁する。
あなたは涙する。

美しい行為です。
私も涙したいし、涙してもらいたい。

しかし、その涙は、
流した人とどこまで同じ涙なのだろう。

そう考えると私は泣けなくなりました。
他人のために泣くなど、不遜で傲慢だと。

なぜなら、その人の悲しみ自体、
その人の悲しい現実を私は体験していないからです。

それは想像でしかありません。
そしてたぶん勘違いが大きいでしょう。
誤解した涙です。

私は他人が涙しているという状況に涙しているだけであり、
その人の苦しみとは一切、対峙していないのです。

あまりに残酷です。
人は孤独です、それぞれに。

私はこの現象にしばらくひどく悩みました。
そしてある決意をしました。

 

誤解でも耳を傾ける

 

もし誰かが涙を流して、
私はその悲しみを受け取ったら、
確実に私は誤解しているが、
それでも誤解した涙を流そうと決めたのです。

あきらかに苦しんでいるとの苦しみなど理解できていない。
それを承知で私はあえて涙しようと思います。

大切なことはふたつ。

①私は何も理解していないことに気づいていること。

そして、

②それでも深く涙する人に耳を傾けること。

このふたつを守って生きていきたいです。