昨日のおれと今日のおれは同じ「おれ」なのか 〜「同一性」について考える

暑いですねー。

 

今日はちとこむずかしい「同一性」についてのお話しを軽くしてみようかと思います。

まあ、わかりにくい概念ですが、「個」としての性質とでもいいましょうか。


もっとざっくりいえば、

 

おれがおれである。

 

ということです。

 

昨日のおれは、今日のおれと同じか??

 

おれがおれであるということは、もう疑いのないもののようですが、

ちょっと違う観点で見ますと、

 

昨日のおれは、今日のおれと同じか??

 

と、考える人がいるのです。

 

昨日のおれに借金が50万円ある。

今日のおれにも当然借金が50万円ある。

だから、昨日のおれは今日のおれと同一である。

 

たしかにそうですね。

 

しかし、それを細かく刻んで、

いまこの瞬間、息を一回はいて、そして吸っている間の自分にフォーカスしてみましょう。

 

息を吐いて吸っている自分は、ただ息を吐いて吸っているだけの存在であり、

家族の有無や地位や名誉や貯金額や恋人がイケてるとかそうでないとか、

なんにも関係がないのです。

 

そのとき、私たちは空気の出入りする皮袋でしかないのです。

 

もう一回、息を吐いて吸ってみる。

その瞬間もただの皮袋。

前の瞬間の皮袋といまの皮袋は特に関連もないです。

 

つまり瞬間瞬間は「自由」なのです。

 

その瞬間瞬間の連続が連なっているように錯覚してしまうのが人間なのです。

 

ここの瞬間は独立していて、「自由」なのです。

 

昨日のおれは50万円の借金を抱えている。

今日のおれだって50万円抱えている。

それがおれだ。

 

と考えるのは当たり前のようですが、

瞬間瞬間には、借金を抱えているわけではないのです。

瞬間瞬間ごとに借金の取り立てのこわいお兄さんに迫られているわけでもありません。

 

過去や未来と、現在は圧倒的に違う

 

道元「前後際断」という言葉をよく使いました。

 

前(過去)と後(未来)は、いまとは関係ない。

それぞれの瞬間が分断されているのです。

 

けむりがもくもくと立ち上る様を見て、

ああ、煙がどんどん流れて行っていると見るのは錯覚です。

一瞬一瞬に、煙の粒子がある座標軸に存在しているだけなのです。

 

ちょっとわかりにくい話ですが、

みなさんの考えるヒントとなればと思います。

 

世界に存在するのは、いま、この瞬間しかないのです。

過去も未来も妄想でしかありません。

 

過去・現在・未来と時間がつながっているというのも錯覚です。

そこには「点」がゴロゴロと明滅しているだけです。

 

こういうプロセスがあって、

あのよく言われる「いまを生きる」という標語に結びついていくのではないかと、

最近は思っています。