自宅での闘病、職場復帰へ。

山での闘病を終えても、先生は職場復帰の許可をなかなか出しませんでした。

そのことで先生と何度もケンカをしました。

しかし、いま、思い返すと、復帰なんてしょせん無理な話です。
思考回路が減速していて、見た目にも廃人のような僕でしたから。

自宅では、ずっとソファにへばりついていました。
体が起き上がらないのです。

ソファから窓の外の青空を毎日眺めて過ごしました。
少しお山が懐かしく感じられました。

なぜ、自分は周囲の反対を押し切って、退院してしまったのだろう。

その頃の記憶がほとんどありません。
ただ、いつも網膜にブルーのフィルターが覆いかぶさっていて、
何を見てもブルーの光景に映っていました。

諜報部員のカールはもはや消えていました。
最悪の時期は過ぎていたのです。
妄想は減り、その代わり倦怠感だけが身体を支配していました。
そして諦めが全身に馴染んできた頃、突然、先生が、「そろそろ出てみまか」と言ってくれたのです。

しかし、職場復帰の条件を先生は主張しました。
先生は当時の上司に、条件を聞くためにクリニックまで来てくださいと申し出ましたが、上司は来てくれませんでした。
その代わり、温厚な人事部長が、長い道のり、東京郊外まで出向いてくれました。
その人はランチのとき、てんぷら屋でいつもビールを飲んでいるような人でしたが、
僕らが後から入ると、知らない間に僕らの勘定まで支払い、ささっと消えてしまうような粋な人でした。

先生は人事部長に、残業なし、ノルマなしなど、さまざまな条件を伝えてくれました。
しかし、それが僕には気に食わない。
そんな小学生みたいな条件下で働けば、まわりの同僚たちはどう思うだろうか。
それは僕にとって屈辱以外の何物でもなかったのです。
僕はとてもプライドの高い、奢った人間でした。

人事部長はすべての条件を飲み、僕を職場へと戻してくれました。

総合企画部部長付

これが僕のポストでした。
普通、企業では総合企画室などと言えば、エリートが行くような部署の名称です。
でも、そこにいたのは、窓際的な定年間際の部長と僕だけでした。

僕の仕事といえば・・・。
毎日、日経新聞の一面を読み、内容を要約して、上司に提出するという作業でした。
要約したからといって、どこかに掲載するわけではありません。
ただ、要約を上司が見て、ハンコを押すだけです。
そして、数日後にはゴミ箱行きです。
仕事ではない、ただの暇つぶしです。
僕のプライドはずたずたになりました。

マスコミ業界はみんな深夜まで働くことがしばしばです。
それなのに、僕はみんなの視線を避けるようにして、
午後5時に帰宅するのです。

意地の悪い先輩は、「よっ、高給取り」などと揶揄しに来たものです。
つまり何もしていないのに、みんなと同じ給料をもらっていていいね、と言いたいわけです。
ひどいでしょ。
でも、自分にも非があるのです。
当時は本当に奢っていました。
発病する前は会社でふんぞり返っていましたし、
他人の批判中傷もいっぱいしていました。
僕が弱者になると、多くの人は、僕を無視したり、見ないようにするか、
先輩のように復讐にやってくる人もいたわけです。
自業自得なのです。

 

そして、僕はそんな環境に耐えきれず、また休職へと追い込まれていくのです。

みじめでした。
元気な頃は、なついてきた後輩女子たちも、
まるで僕のことは無視するようになりました。
昼飯行くぞ、と言えば、くっついてきた新入社員の女子やアルバイトの連中ですら、僕をいないものとしてスルーするようになりました。

唯一、僕を相手にしてくれたのは、契約社員の智恵ちゃんだけでした。
「カールはどうしてるの」などと悪意のないからかいを受けると、僕もうれしくなって、「いま、ドイツに帰ってるらしい」ぐらいの切り返しができるようになりました。
彼女とはいまも親友です。
本当に信頼できる人は、窮地の時にわかるものですね。
僕を助けてくれたのは、社員数百人の中で、わずかに数人でした。

「いまは長い滑走路を助走している期間、離陸までは時間を稼ごう」とO先生は励ましてくれました。
とはいえ、やはり外圧はきつく、こちらもボロボロなので、第一線に戻ることなく、二度ほどの休職を経て、会社を去るることになりました。