記憶とは墓場である

記憶は霊的にはなんの役にも立たない

あなたは記憶に救けられていますか。

人生を救うものは、優しい愛の記憶しかない。

と何かのエッセイで呼んだことがあります。
確かに、落ち込んだとき、誰かからもらった愛の記憶は癒しになりますね。

また記憶は、経験となり、自分を危険から守ってくれます。
また知的な創造活動の助けになることもあるでしょう。

しかし。
霊的にはなんの役にも立たないのです。

なぜか。
想起する、記憶を手繰り寄せるというのは、
過去の遺物をかき集めているだけなのです。

記憶は「生」を奪い取る

記憶というのは過去の産物でしかありません。
記憶に頼るということは、過去にすがるということです。

いつも言うように、神が宿るのは「いま」しかありません。
神は過去形や未来形で語られません。
神の祝福が降り立つのは、過去でも未来でもなく、「いま」です。

「いま」起点に生きる。
「いま」をゼロとして生きる。

道元はそれを「初心」と言いました。
書を書くとき、一度目には集中できますが、
二度目はどうでしょう。
もうすでに先入観や惰性が入って、うまく書けません。

写経なども一枚目はまっさらな気持ちで書けますが、
二枚目はボロボロです。

記憶というのはエゴのより集まりで、
新しい体験が自分の中に入ってくると、
ものすごく抵抗します。

結局、人間は過去の強力な負のエネルギーに敗北して、
おずおずと過去、つまり記憶に従うのです。
平凡な生活、家族のしがらみ、常識により規定。

あなたは何も代わりません。
なぜなら、過去の記憶に従ったほうがラクチンだからです。

新しい体験には恐怖がつきまとう

新しい体験がやってきたら、
それはつらいことでもうれしいことでも、神のメッセージです。
まっさらな気持ちで空け入れたいです。

そこには恐怖が待ち構えていることでしょう。
これを勇気を持って、受け入れないならば、
あなたの「いま」は屍を生きているようなものです。

いえ、死んでいるのです。

いいことであり、
悪いことであり、

新しくやってきた神の祝福には、
記憶や経験などに頼らず、
「基準」や「規範」のない「いま」この瞬間の直感に頼りましょう。
「いま」と
「過去」や「記憶」は、地続きではありません。
次元の違う世界のお話です。

「いま」だけがあなたの生きている世界です。
記憶の中にこじんまりと眠る生活を脱して、
新しい異物を勇気を持って受け入れましょう。

そこからしかあなたは決して変われません。

記憶の中で、成長を止めますか。
新しい冒険へと乗り出しますか。

頭ではほんとうの体験はできない

頭で考えたことは、ゴミ

ぼくは意外とお勉強好きです。
般若心経も学問として、最初に読み始めました。

ぼくは体系だった学問が大好きです。
論理的に美しければ美しいほど、その学問を愛します。

しかし。

人間が考えることは、限界があります。
人間の思考など、ただ事実の寄せ集めでしかありません。

たとえば、「ピンクの象」がいると考えた人間はおもしろいです。
でも、「ピンク」も「象」も実在の事実の合成でしかありません。

クリエイティブな人がもてはやされる時代ですが、
クリエイティブといったって、しょせん、昔のアイデアの組み合わせでしかありません。

ゴミのようなものです。

論理の外に真実がある

想像力とは、既成の概念をぶちやぶったときのパワーにほかなりません。
しかし、その素晴らしい想像力ですから、
寄せ集めのアイデアのぶつかりあいでしか、ありません。

ところが、人間がほんとうに解放されるのは、
そういう他人から押し付けられた過去の遺産ではありません。

自分の体験です。

自分が論理や概念から自由になり、
いま、ただこの瞬間の投げ出される体験。
自分を信頼して、それを受け取る勇気。

自分がいま、存在して行為することの驚き。

それこそが、生をリアルに生きていることですし、
ほんとうの意味での解放、といえるでしょう。


般若心経は宗教ではない

仏教を超えた「生」な言葉たち

人生どん詰まりのぼくは、般若心経を手にしました。
これははじめて言うことなんですが、
般若心経が仏教の教えの中核を伝える教えだから、
信じて読んでいるわけではありません。

どちらかというと、ぼくは無神論に近いし、
仏教をとりたてて崇め立てているわけではありません。

宗教はある意味「イズム」です。
なんとか主義とか、なんとか宗派とか、
それそれが主張しあい、罵り合っているのは悲しく見えます。

干からびた宗教は人を牢獄に押し込めます。

なぜなら。
みんなただ安心したいから飛びつくだけです。
ドグマに満ちた宗教というシステムの中にいれば、
ぬくぬくとあったかいからです。

気持ちはわかるけど、ちょっとさみしい。

般若心経はそれを超越したところにあります。
言葉が生きているのです。
経典の中の死んだ言葉とはちがいます。
般若心経は「詩」なのです。

権威という偏見から脱出する

権威とは、死にがらです。
人は「いま」を生きています。
「いま」ただ、この瞬間に体験した「生」な驚き、
それだけが人を自由にしてくれるのです。

世界は恐るべきスピードで変化しています。
確かなのは、その「変化」だけ。

一瞬、一瞬の「変化」に驚く。

その経験こそが、生きている証なのです。

般若心経は、あらゆる権威と常識と偏見から、
つねに自由でいろ、と訴えています。
だから、宗派などの垣根をくぐりぬけて、
いまも万人の心を打つのです。

このブログでも、これからそのあたりを
訴えていきたいと思います。

「でも」ではなく、「そうだね」ではじめてみた

「でも」は醜い

村上龍さんの小説、『超電導ナイトクラブ』にはおもしろい人がたくさん出てきます。
その中のひとりに、部屋の中に入ってくるとき必ず、
「それは正しい!」と叫ぶ人が出てきます。

圧倒的な現状肯定です。

ひかれますね、かなり。

引き寄せの法則について書かれた、秋山まりあさんの楽しい書籍
『100%自分原因説で物事を考えてみたら』という本も好きですね。

いまの自分はすべて自分が生み出した結果。

これを否定したら、自分の過去してきたこと、
すべてを否定することになります。
それって、神様への冒涜ではありませんか。

ニーチェのせむし男の話も好きです。
『ツァラトゥストラはこう語った』に出てきます。
せむし男から、こぶをとってしまったら、それはせむし男ではなくなる、
つまり彼は彼ではない、彼は彼の人生を生きない、という意味でしょうか。

自分の人生に「でも」からはじめる人は信用できません。
人生に限ったことではないです。
会話の最初に、「でも」からはじめる人の話はたいてい退屈です。

まずは相手の現状を肯定する

人は誰かに何かを伝えたい。
でも、相手はたいてい自分の意見で返したい。

自分の意見を言うのはいいけれど、
相手は、本当は自分の話を聞いて欲しいのではないでしょうか。
相談を持ちかける場合も、
たいていはもう結論は決まっていますから。

意思決定は結局、自分自身でするしかないのです。

僕はコミュニケーションするとき、
できるだけ自分の私見をはさまないように心がけています。
それは消極的なのではなく、むしろ相手の意見を肯定する、
積極的な態度だとおもうし、マナーだと思います。

思いやりって、どれだけ相手の心に着地できるかだと思うのです。

最近は、評論家みたいなコメンテーターみたいな人が多くて疲れます。

そんな自分も、昔、奢っていたとき、
自分をかなり辛口のコメンテーターと自負していた、
こっぱずかしい時代がありました。
穴があったら入りたいです。。

 

あなたにもできる! 本を書くこと。僕にもできた

チャンスは身近なところに

病気になって、失業して、友人も、家族も失った僕。
失意のままになんにもしなかった10年間。
やっていたことといえば、般若心経を読むことだけ

そんな生活をおもしろいと言ってくれる唯一の友がいました。

その友はフォレスト出版という出版社の編集者T君でした。

思い出します。あれは、赤坂のパプのような飲み屋でした。

「◯◯さん、あなた、この10年、何もしてないと言ってだけど、
けっこうおもしろい体験してるじゃん。
おれは、あなたに何かを書かせたい

T君は僕をそう励ましました。

「いやー、おもしろいものなんてないよ。
おれなんか何のとりえもないつまらん人間だよ」
僕は力なく言いました。
「そんなことないよ。難しい病気になった事自体、
珍しい体験だよ。あなた、いま、世の中について、
何か言いたいことはない」
「うーんあるにはあるけど・・・
おれ、世の中に適合できなくて、
自己嫌悪を感じていたんだけど、
もしかしたら、世の中も変なんじゃないかと思えてきた
「それだ、それを言おう。隠すことなく、ぶちまけよう
「どうやって?」
「ただ、ぶちまけただけではだめだ。何かテーマがないと」

それが般若心経だったわけです。
それしか知らなかったから。
僕は般若心経を読んで、世の中について考えたことを本にしました。
それが「ロックンロール般若心経」です。

ひとつのテーマを掘り下げれば、誰でも本が書ける

いま、書籍や電子書籍をたくさん作っている僕ですが、
僕のように突出した才能がない人間でもできたのだから、誰にでも本は書けると思います。
そうです。
だれでも、自分の思いを世に問うことはできるのです。

大切なのは、「軸」だと思います。
情報は日々、めまぐるしく流れていきます。
必要なのは、その情報の流れに「杭」(くい)を打つことです。

自分なりの「杭」でいいと思います。

セックスが好きなら、セックスという「杭」を打ち、セックスという視点から世界を見る。
ゴキブリが好きなら、ゴキブリという「杭」を打ち、ゴキブリという視点から世界を捉え直す。

そこが、オリジナリティや独自性と言われる「強み」になると思います。

なにも出版社から、紙の本を出すことが唯一の自己表現というわけではありません。

たとえば、小説なら、「小説家になろう」や、
ノンフィクションなら、「Story.jp」など、
紙以上に読者に読まれるメディアもあります。

まずは、「杭」「軸」「独自の視点」を積み上げることから始めてみたらいいと思います。
あなたのオリジナルな視点を待ち望んでいる人はかならずいるはずです。
なぜなら、人はひとつは必ず、きらりと光る知見を持っているからです。
できますとも、必ず。

不自由な自分が心地よい理由

制約がある人ほど、実は強い

今日、人に言われました。
「悲しい人って、強いですよね」。
悲しみにくれる人は、実は強い。
悲しみに満たされていればいいからです。

お金がない、彼女がいない、いい仕事がない

言って、嘆いているのは、実は案外、心地よいものなのです。


心当たり、ありませんか。

失恋で、どん底に落ちている人は、ある意味、解放されています。

だだっ広い部屋で一人で暮らすより、
四畳半一間が、案外快適なのに似ています。

自由とはおそろしいもの

僕も失業や病気で引きこもっていた頃は、
いま考えると、けっこうラクチンだったかもしれません。
「あーあ」と嘆いたり、悔やんだりしていればよかったからです。

自分がだんだん元気になり、
自由というものが身近に転がっているのを発見したとき、
苦しみがどんどん増していったのを思い出します。

自由は、こわい。
大きな宇宙空間に、ぽいっと放たれたような感覚。
これ、ほんとにこわいです。

だから。
人生には羅針盤が必要です。
しかも、羅針盤がいくつもあったら、混乱します。

そういうわけで、僕は、たった262文字の般若心経だけを心の拠り所にしています。

困ったら、般若心経に聞け、
迷ったら、般若心経に従い、行動せよ。

こうやって、僕は心の安定をキープしている次第です。

「決められない」のは勇気のある証拠

「決断力」の大ウソ

「決断力をつける」などのテーマの本か売れています。
「決断力」がない人間は時代に取り残される。
「決断力」がない人間はチャンスを取りこぼす。

本当でしょうか。

一世一代の決断。
みたいな場面が、人生では何度かあります。

人生の岐路での決断。
そんな大げさな言葉がよく使われます。

もちろん、否定はしません。
決断しなくてはならないときは、僕もそうしますから。

でも。
「決断しよう」と息巻いてした決断は、
僕の場合は、たいてい失敗に終わりましたね。

転職しかり、
ビジネスの投資しかり。
人との出会いと別れ、しかり。

全部、失敗しとります。

それはおまえがバカだからだ、と言われればその通りかもしれません。

そんなでっかい決断でなくても、常に失敗していますね。
昼飯のメニュー、電車の経路の選択、傘を持って出るか否か・・・。

たいてい失敗しています。

「決断する」って、そんなにすごいことなんでしょうか。

自力はコケる、他力の時代

仏教では、自分で推し量って行動することを「自力」(じりき)と言います。
一方、自分の運命を天にまかせることを「他力」(たりき)と言います。
仏教の中にも、「自力」を重んじる宗派と、「他力」を重んじる宗派があります。

「自力」の代表格は、禅宗です。
坐禅をして、自己を知る、まさに自分頼みの宗派です。
「他力」の代表格は、浄土真宗です。
親鸞上人の教えで、南無阿弥陀仏と唱えて、天の救いを待つ宗派です。

神頼みなんて、うそ臭い。
と思う方も多いでしょう。
でも、自分頼み、というのもキツい感じがします。

僕が思うに、「自分頼み」に自信がある人は、まだどん底を味わっていない方なんじゃないかなー、と思うのです。

追い詰められ、ぎりぎりのところまで落ち、最後に「助けてください」と土下座をする心持ちまで落ちた人は、自分の力の限界をよく知っています。

運命に逆らわない、あらがわない

世の中のパワー、もっと大きく言えば、宇宙のパワーは偉大です。
それに比べると、僕らの努力なんて、ハナクソみたいなものです。

僕はイスラムの方々が、礼拝するとき、聖地に向かって、身を低くする姿に心を打たれます。
自分なんか、小さい。神の力は偉大だ。だから、自分のすべてを神に捧げます。

インドに行ったとき、夕暮れに、イスラムの寺院からコーランが流れ、みなさんがひれ伏している姿に、僕は深い感動を覚えました。

さて、「決断力」の話に戻りますが、
自分の判断に自信を持っているうちは、
宇宙のパワーは流れこんでこないと思うんです。

ひれ伏して、ひれ伏して、すべてを受け入れたとき、
宇宙のパワーが全身を満たしてくれるはずです。

小手先の決断なんて、たかが知れています。
もっと雄大な目で、宇宙と交流して、
宇宙のエネルギーの流れに、すべてをまかせてみるのも、
素敵なことだと思いませんか。

それには、運命に逆らわない、あらがわない。
あるがままを受け入れる。

きっと気持ちがすうっと楽になりますよ。