「自分探し」は玉ねぎの皮をむくほど徒労に終わる

「自分探し」をした無駄な10年

みなさん「自分探し」をしたことはありますか。
大好きでしたね、僕は。
なにしろ、30歳頃、重い精神病を患い、
失業、借金などに追われた身で、
30代はまさに、失われた10年でしたからね。

「自分探し」をはじめたのは、40代でしたよ。
40代になって、ちょっと元気が出てくると、
「おれの人生って、いったい何だったんだ!?」という疑問で頭がいっぱいになりました。

もちろん、20代は豪遊しました。
でも、それは単に豪遊しただけ。

自分について、考えることなどないほど、脳天気でした。
普通はみなさん、10代から20代で「自分探し」をするでしょ。
僕は失ってしまった青春、なーにもしなかった青春を悔やみ、
病気が治った40代からはじめたわけです。

いま、50歳。それから10年たったわけですが、
結論として言えば、自分なんてものはなんにも見つかりませんでした。
それなりに、いろいろなものに手を出し、投資しました。
でも、何も見つかりませんでした。

まさに無駄骨を折った10年でした。

 

「自分」なんてものがほんとうにあるのか!?

自分、おれ、私・・・。
自分のことばっかり語っている、オレオレ語りの人を「自分病」などと言いますね。

なんで、「自分探し」をしている人は、うざいんでしょう。
なんで、「自己とは何か」などと探求している人はうっとおしいんでしょう。

正しいことをしているはずなのに、なぜ、すがすがしくないのでしょうか。

それはみんな薄々気づいているからなんですよ。
「自分探し」なんていうのは、幻想であり、それを信じている人がうさんくさいことを。

自分には確固とした「自分」があると、思っているのはマボロシです。

僕たちは、日々、いろいろな情報に押し流されながら生きています。
情報に対して、反応しているだけなのです。

たとえば、AKB命、という人がいるでしょう。
それに燃えられるのは、楽しいことです。とてもよいと思います。

ただ、本当にAKBでなくてはならないのでしょうか。
もしAKBがいなかったら、モーニング娘。を追いかけている可能性はありませんか。

おれの彼女は、オンリーワンだ。
そうかもしれません。人を愛するとはそういうことです。
でも、その彼女が存在しなければ、ほかの女性がオンリーワンになっているはずです。

このように僕たちは流れてくる情報を受け止め、反応している存在です。
そう、水辺を回遊する笹舟のようなものです。

いくら、本当の自分などを探して行っても、行き着くところはありません。
僕らは、ただ偶然にも自分に届いた情報に反応しているだけなのです。

ですから、仏教では、自分なんてものはない、と言います。
これを「無我」と言うのです。

玉ねぎの皮をむいていくと、結局、何も残りません。
玉ねぎというものは実在するのに、その実体は空っぽです。
これを仏教では「空」(くう)と呼びます。

大切なことは、「無常」を知ること

 

情報に反応しているだけの存在、というと人間を軽視しているみたいですね。
そうかもしれません。
僕は人間を愛しています。
自分も愛しています。
でも、人間はそんなに気高いわけではありません。
状況が変われば、コロコロ変わってしまう存在です。

でも。

それでいいじゃないですか。
そんな存在であるほうが、なんかラクチンではないでしょうか。
青空に雲が一片浮かんでいる。
青空にも雲にも意味はありません。
僕らにも意味なんてないのです。
刺激に流されて生きているのみです。
これを「無常」と呼びます。
「無常」は何にもとらわれることなく、自由です。

僕は10年間、「自分探し」をしました。
そして、いま、「無常」をかみしめています。
まだまだ自我というエゴの影が濃厚です。
なにかというと、自分は、自分は、と言ってしまいます。
でも、言ったあとには、すぐに「無常」を思い出すのです。

そうやって、気が狂うのを防いでいます。

「不」と「無」が30個も! 常識をメッタ斬りする般若心経の魅力

なかなか世の中と折り合いがつかず、
ついには、妄想でドイツ人のスパイに命を狙われていた僕。

「勝ち組」だの「負け組」だの地位や名誉、カネに縛られるこの世が苦しくてたまらない。
ええ、昔はそういう世界も嫌いではありませんでした。
受験戦争も体験して、憧れの企業に入社して、得意満面な顔で街を闊歩していた時代もありました。

でも。

だんだんそれが息苦しくなりました。

僕が二度目に就職した会社は超学歴主義で、
東大・早稲田卒の人が大半でした。
彼らは自分たちのヒエラルキーを維持するために、
小さな小さな努力をしていました。

たとえば。

同じ早稲田大学を出た人でも、その中でカースト制度があるのです。

「あいつは、政治経済学部か、かなわねえな」
「あいつ、文学部? へえー」
「教育? なんでまたうちの会社に」
社会学部? 苦労したのね」

みたいな会話や雰囲気に満ちていました。

息苦しかった。
でも、僕はそいつらに敗けないために、大いに虚勢を張っていました。

あげくのはて、精神病院に・・・。

ところで。

般若心経は262文字しかありませんが、そのうち、30字も、

「不」や「無」

という言葉が散りばめられているんですよ。
おもしろくないですか。

それぞれのフレーズには深い意味があり、
それはこのブログでのちのち解説していきますが、
今日はなぜ、「不」や「無」がこれほどまでにたくさん使われているかについて、
ほんの少し考えてみます。

「不」とか「無」はご存知のように、否定の言葉です。

このポジティブ時代に、「ノー、ノー」と言っているのは、
なんか時代に逆行しているようですね。

では、何を否定しているのでしょう。
ざっくり言いましょう。

常識を否定しているのです。

もっと具体的に言いますと、

先入観・偏見などの色めがね

を外しなさい、と言っているのです。

世界を裸眼で見よう!

と唱えているのです。

冒頭の例で言いますと、
早稲田大学のどの学部を出ているかなんて、
目くそハナクソの世界です。
自分たちの狭いアイデンティティでしかものの見えない悲しい習慣なのです。

あいつの時計はロレックス、
おれの時計は、カシオ。

あいつの家は、代官山、
おれは上野の四畳半。

あの子の彼氏は、三菱商事
私の彼氏はプータロー。

いいじゃないですか。そんなこと。

生きていだけで、まるもうけ

とは、よく言ったものです。

人間、手ぶらで生まれてきました。
そして手ぶらで死んでいきます。

ほんの束の間、ちょくら手にした所有物など、
たいした価値もありません。

ロレックス、代官山、三菱商事も、
この2014年東京のしかも狭い価値観を持った人たちだけに響くキーワードです。

生まれ丸裸、死ぬのも丸裸。
だったら途中も丸裸のほうが、
失うものもなく、すがすがしく生きられるのではないでしょうか。

そんなものたちをかき集めようとして、
人生を棒に振りかけた僕がそういうのですから、
安心してください。
大丈夫です。

丸裸、手ぶらで疾走しましょうね。ロケンロー。

「善悪」とは窮屈な人間界の価値基準

人は自分に都合がいいとき、
「正義」という名のもとに、人を糾弾したり、
「罪悪」だと非難して、相手を痛めつけたりします。

窮屈ですね。

僕も以前は、自分のご都合に合わせて、「正義」などを振りかざす、
鼻持ちならない人間だったんです。

そして、時には、その「善悪」という世間の基準からはみ出している自分に、
激しく自己嫌悪を感じたりもしていました。

それで、アタマがどうにかなってしまったところがあります。

いったい、「正義」とは何なんでしょう。

日本を代表する仏教学者に、鈴木大拙という人がいます。
この人が、

 

無心ということ (角川ソフィア文庫)

無心ということ (角川ソフィア文庫)

 

 

『無心ということ』という本で、
こんなこと、言ってもいいのかいな、という大胆な発言をしています。
超おもしろいから、引用しますね。

けれども善悪できちんと分けられている世界はすこぶる窮屈な世界です。そんな世界では、ちょっと手を出せば、それは悪い、足を踏めば、それは悪い、人の頭を殴ったら、それは大いに悪いということになる。貧乏したり、金持ちになったり、善根をつんだり、功徳を増したりなどして、すこぶる窮屈な世界である。ところが宗教の世界はそういうことではない世界です。手で殴りたいと思ったら殴る。蹴飛ばしたいと思ったら蹴飛ばす、また反対に、蹴飛ばされたら、蹴飛ばされて倒れる。あるいは死んでしまう。いわば無茶苦茶の世界です。」

 


これは一見、危険な考え方のようにも受け取れます。
でも、僕らはこの発言になぜか惹かれるものがありませんか。

これは、つまり、分別する心、二元論の心を捨て去った世界のことを言っています。
分別する心、二元論の心とは何でしょう。

あいつはバカでおれは賢い
それは汚くあれは美しい
そっちが悪くこっちが正しい

みたいななんでも判断を加える世界のことです。

僕は仏教を通して、この窮屈さから解放されたのです。

大拙さんは、こういう無茶苦茶な世界にも、秩序というものが自然と成り立っていると言います。

山には雨が降り、入江には潮が満ちる。

誰もとやかく言わなくても、
あるべきものが、ちゃんとそこにある。

ごちゃごちゃしているけれど、誰がどうこうと意見を言わなくても、
あるところに、しかるべきものが、ちゃんと存在している。

あるがままの世界をあるがままの目で見る。

これが、禅の世界なんだなと感じています。

風が吹けば、木が倒れる。

誰が風の吹いていることを見ていなくても、
吹いた風で、誰も見ていなくてもバサリと木が倒れる。

ただ、それだけのこと。
それだけなのに、宇宙はずっと昔からその営みを繰り返している。

そこに、人間の解釈を加えると、
あるがままのものが、そうでないものに変容します。
そして、執着が生まれ、苦しみが生じます。

禅はこのような人間のフィルター、色眼鏡を取っ払う修行だとも言えます。

僕はこの絶妙な文章が大好きで、
迷いが生じると、読み返しています。

人間の恣意、バイアス、思い込みがを取り払うことで、
時に人は大きな解放感を得られるのかもしれません。

目的のないことに集中すると自由になれる

長い長い病気と、その後の社会復帰に時間がかかった僕。

やっと中堅の出版社に潜り込み、ビジネス書の編集者をしていました。

その当時、ライフハックとか、レバレッジ仕事術などの、仕事を効率的・効果的に行う仕事術が流行っていました。

僕も追いかけましたね。研究しました。

基本、ミーハーですから。

ところが、そういうことを考えれば考えるほど、仕事が重くつらくなりました。
いかに効率よく、効果的に仕事をするか。
メール一本送るにしても、いかに効果的か、相手にインパクトを与えるか、などを考えていくうちに、うんざりしてきたのです。

特に、レバレッジという考え方には、げっそりしますね。
1のアクションで、10の効果を上げる、などという。

うざくないですか?

そんな狙いすましたコミュニケーションを人は望んでいるのでしようか。

仏教、特に禅の世界では、こういう考え方をたいへん嫌います。
1のアクションは別に0の効果でもいいんです。

大切なのは、その

1になりきること

です。その1にいかに集中して、ほかの雑念をシャットアウトできるか、
これが禅の修行です。

坐禅についても同じことが言えます。
坐禅は別に、心を晴れ晴れとするためにするものではないです。
坐禅に目的はありません。

ただ、坐る

それだけです。
効果などは、後からついてくるおまけのようなものだし、そのおまけに期待したら、その坐禅は台無しになります。

私たちは常に目的と結果を求められます。
でも、禅では、そんなものは、捨てておけ、というわけです。

僕は仏教に触れてから、いかに目的を忘れるかに気を配っています。

この行為の意味は? 目的は? 効果は?

などと考えるのは、本来の自分、自分の中のブッダを裏切る行為なのです。

実際、目的など考えずに、何かをしてみてください。

とても自由な気分になれます。
解放されます。

何にでも、効果を推し量っていた自分。
それが精神病からなかなか抜け出せなかった敗因の一つでもありました。

目的を捨てるには、「いま」の行為に集中することが大事ですが、
どうしても、集中できない人は、まず他人のためにする行為を増やしてみてください。

他人のためにする行為は、その行為自体と一つになれます。
自分を裏切ることがなくなります。

ぜひお試しをー。チャオ。

他人を許すことは自分を解放すること

憎い。

こんな気持ちは人間だったら当たり前です。

顔も見たくない。
あいつが不幸になればよい。

そういう相手も実際、誰にもいますねー。

僕もいっぱいいましたよ、今も少々^^;

でも、憎しみというのは、実はそういう相手がいるから存在するのではなく、
自分の心の中にあるさざ波である、という考え方もあります。

みんな自分本位に生きています。
自分がいちばんかわいいんです。
ですから、他人とは利害がぶつかります。

恋愛においてもそうですね。
こっちがいくら愛しても、相手がこたえてくれるとは限らない。

私がこんなに愛しているのに、
あの人は私の心を踏みにじる

そういう体験も、誰しもあるでしょう。
でも、相手は踏みにじっているわけではありません。
ただ、自分の思うように好き勝手にやっているだけです。
あなたの心を積極的に踏みにじっているわけではないのです。

もし踏みにじられたと思ったら、
それはあなたの心の中だけで起きている、さざ波である、と考えたほうがよいでしょう。

では、さざ波をなくすにはどうしたらよいでしょうか。

それには、
目の前に繰り広げられている、
あるがままの世界を観察しましょう。

そう言われても難しいのはわかっています。

でも。

それしか抜け出る方法はないのです。

相手に復讐したい気持ちはわかります。
実際、復讐してもよいでしょう。
でも、たいていの人は泣き寝入りするほかないんです。

泣き寝入りをするのなら、
自分の凝り固まった認識の壁を打ち崩すほかないのです。

僕の場合、坐禅や瞑想が役に立ちます。
「無」になるということは、
「所有」を放棄することであり、
欲望から自由になるということです。

でも、みんながみんな簡単に坐禅できるわけもありません。

僕がおすすめするのは、
毎日、その日に起きたこととそれに対する気持ちを記録することです。
「憎い」とか「ぶち殺したい」とか感情を書くのではありません。
あったこと、それに対して、どういう感情が起きたかを淡々と書くのです。

まずは、10日やってみませんか。
「ふーん、自分って、こういう風に考えるのか」と気づくことができます。
この「気づき」が重要なんです。
「気づく」と感情をズームアウトして、俯瞰(ふかん)で見ることができるようになります。
僕は冒頭で、「あるがままの世界を観察する」と言いました。
この「観察」が大事なんです。
お医者さんのような冷静でクールな目が、自分の治療には大切です。
ほぼ日手帳」のような日めくりの日記帳があるとベストですね。

世界をありのままに観察できるようになると、
心に余裕が出てきて、さらにそれが広がると心が解放されます。
心が解放されたとき、あの叩きのめしたいほど憎んでいた人も、
たいして気にならなくなり、自然と許せるようになります。

「よし、いまから許す」はウソです。

そんなに簡単に人は感情を切り替えられません。
たとえ、許すと決意してもわだかまりは取れません。

さきに心を自由に解放するのです。
そうすれば憎い人を許せ、世界と和解することができます。

まずは憎しみの対象から自分を一度、引き剥がして、
自分の心の観察を続けてみてはいかがでしようか。

いいこと、ありますよー。グラッチェ

般若心経は、お気に入りの1フレーズでよい

こんにちは。
まずおもしろいものをご覧いただきましょう。

これです。

犬目山 不動院 安養寺の絵般若心経

おもしろいでしょ。
絵心経といいます。

昔は、文字が読めない人も多かったから、絵で般若心経を伝えたのです。

般若心経というと、漢字ばっかりで読みにくく、何を言っているのか、さっぱりわからないという人も多いでしょう。

でも、漢訳を読みこなすことが般若心経の目的ではないのです。

昔の人は、紙切れやボロ布にお気に入りの一文字を書いても持ち歩き、ご利益を得ていた人もいるくらいです。

たとえば、般若心経の表題冒頭の「摩訶般若波羅蜜多心経」の「摩訶」という二文字だけでも壮大な宇宙を表しています。

摩訶

まか、と読みます。
これは比類もなく大きい、という意味です。
そうです。「摩訶不思議」の「摩訶」です。

比類もないというのは、人間の想像もつかない、という意味です。
仏さまの世界は、人間の想像もつかない世界なのです。

摩訶とは、ひとつの宇宙が始まってから終わるまでの時間。
あるいは、1辺に40里の城にケシ粒がぎっしり詰まっていたとします。この城の中から100年に1粒ずつケシ粒を取り出し、城の中のケシ粒が完全になくなるまでかかる時間、という表現もあります。

とにかく果てしないのです。

ですから、仏の世界では、
人間の善悪の基準などは、ハナクソほどの大きさもないのです。

ですから、仏教では、仏の道に生きる人間は、
そんなハナクソ的な価値観に、

しばられるな、
とらわれるな、
そんなちっぽけな価値観・常識など、
捨ててしまえ

というのです。
もうこれだけで、仏に救われます。

人間の価値観なんてしょせん、ちっぽけなものです。
問題は、その価値観にとらわれて、がんじがらめになることです。

もっと自由に生きろ、

そんなメッセージが冒頭から繰り出されているわけです。
もうこの二文字だけでも十分すぎる教えですね。





仏教を愛する僕が、洗礼を受ける!?

こんにちは。昨日からちょっとふさぎこんでいました。
なんででしょう。
たぶん、昨日と今日は「無常」をハラに落とし込んでいなかったからでしょう。
他人も世界も、決して自分の思うようにはならない。
僕らができることは、他人や世界をただ、ありのままに見守るだけです。

さて、僕がどういうわけか、キリスト教の洗礼を受けた話をしましょう。

仏教徒にとって、キリスト教はなんとなく、メソメソした暗い宗教に思えるでしょう。
「汝の敵を愛せ」の言葉に、マゾヒズム的偽善を感じた人もいるでしょう。

アメリカン・カルチャーにどっぷり浸ってきた僕には、キリスト教はお友だち・兄貴のような存在です。
日本人、とくに戦後の民主主義はおおむねキリスト教社会の文明を取り入れたものであり、あなたが嫌っても、実は根深くあなたの心に植え付いています。
このことは、『ふしぎなキリスト教』を読んでいただければ腑に落ちると思います。

僕は、自分が腹黒い人間だったと確信を持って言えます。
腹黒いとは、自我が強く、自分のことしか考えていない人間だったということです。
そして、僕は自分がどす黒く罪深い人間であることに、自己嫌悪を感じていました。

こんな最低の人間も、イエス・キリストは受け入れてくれます。
実際、キリストが誰よりも愛し、その命を持って救ったのは、罪人、売春婦、伝染病患者、不具者たちだったのです。

イエスは百匹の羊の群れより、一匹の迷える子羊を救おうとしました。

なぜなら、

僕らの罪はすでにゆるされている

からです。
イエスが辱めを受け、十字架の上で死んだのは、

きみたちの罪は、おれが全部背負って死ぬから、
あとは安心して生きなさい

というメッセージなのです。

仏教ではよく、

今日に死に、明日に生まれ変わる

などと言います。
それに近いフィーリングがあります。

僕らの罪はゆるされているのです。
だから罪人である僕らは今日で死に、
明日は明るい顔で生きていい

のです。

実際、過去をひきずってよいことはありますか。

何も生みません。
だったら、イエスの名のもとに、過去は今日で精算して、
明日から新しい自分を生きればいいのです。

冬の寒い日、僕は教会の洗礼式に臨みました。
般若心経に救われた僕が洗礼を受けたのです。

常識的にはおかしいかもしれません。
キリスト教の信者から非難されるだろうし、
僕はもはや信者とは言えないでしょう。
でも、僕の中で、イエスの愛は生きています。

と、正直に言ってみました。